Up 沙流川筋 作成: 2018-12-18
更新: 2019-01-27


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      松浦武四郎 (1870), pp.134-138
    二日。
    キムンサンケ (シケレベ乙名) を先導とし、(十餘町) フシコベツ(下川) 過て上りチエトイナイ(小川) に出、
    爰に鹿多く土を喰たり。
    是チエトイ [珪藻土] 也。
    此邊の者も昔は是を喰しと云り。
    上り(凡一り)峠に出、(半り) 下りて (従是ポロサル〔幌去〕川筋)
    △キタルシナイに出、澤ま々(凡一り)下り川端に至るや、兩人川に飛入、向より刳舟(くりぶね)を乗来り一同を渡しぬ。
    其勢實にいさましく有たり。
    サルベツ〔沙流川〕(川幅六十餘間) 上にポルサル〔幌去〕村 (人家廿二軒) リキナシコロ家に到るや、シユクトカ爺は題頭菌(カルシ)(まいたけ)・小鹿一匹、乙名(シユクシナ)妻は鱒・鴈豆(いんげん)を持来。
    地形南向畑多く、粟・稗・南瓜(とうなす)胡瓜(きうり)・呱吧芋・手なし(ニイシヤクマメ)豇豆(ささげ)・麻・烟草(たばこ)(かぶ)の類多く作たり。
    實に蝦夷第一の土地なるべし。
    午後舟にて上る。
    ヲゝコツナイ(右川)、タンネサル(右平野)、シユツタ(右川)、
    フウレナイ(左川)
    此邊より大岩簇々(ぞくぞく)川中に突出し甚危し。
    依て従是舟を禁じ有よし。
    然る〔に〕強て遣るや、兩岸愈嶮也。
    ルツチユツフ(左川) 一條の瀑布と成落。
    トナエ(左小川)
    此邊白き丸石のみの川原也。
    夕陽是に落るさま實に奇観なるべし。
    此處にて舟を曳上、(かい)もて穹盧(まるごや)を作り宿す (従ポルサル〔幌去〕え〔衍〕二り半)。
    飯を(たか)んとせしに、石飛刎(とびはね)て其邊りに居難く、甚困りたり。
    三日。
    出立。
    山皆(とど)に成、地形一變す。
    (ひのき)も有と。
    夷地檜の有は此處(ばかり)也。
    是を材木山と云。
    當處の材木皆爰より出せば也。
    ルツケウ(右平)、イケウレリ(右川)、(ならび)てムセウ(左川)
    此川鱒多き由にて、土人等(やな)(かし)て漁し居たり。
    ムセウは()て喰義也。
    川筋小石多く、源はムカワ〔鵡川〕の上に至ると。
    舟を繋ぎ岩間傳ひ上る。
    ケナシヨロシナイ(右川)、レタリヲマナイ(同)過て、岩愈(とがり)、歩(きわまり)しが故、其大略を聞に、處々無名の瀧有、實に奇と云ベし。
    きて見ベき 人もあらじを 山姫の 瀧の白布 なにゝおるらん
    是上はバンケナイ(右小川)、ベンケナイ(同)、エネンケナイ(同)、シキシヤナイ(右川、幅六七間)
    此源にアネノボリ(尖り岳の義) と云佛飯の如き山有。
    アネは尖りし事を云也。
    此後ろ十勝のサヲロに當る。
    過てイワチシ〔岩知志〕(右高山二有、其間より落る)、
    イワナイ(左川)、フツホコマ(同)
    此上にセタニウシ岳と云有。
    過てモサラ(右股)、ホリカウエンサラ(左川)、シイサラ(右川)
    此邊(そうじ)て大轉太石(ごろたいし)
    源夕張の南つゞきの山に至る(シユツカトク、シユクシナ申口)と聞り。
    (さて)舟して下るに、(ふなばた)より水飛入、其危き言んかたなし。
    軽舟已過萬重山等口吟(くちずさみ)てポロサル〔幌去〕に宿。
    此村、昔し十勝より来りし者と、津軽の字鐵より来りし者の子孫なりと。
    今に乙名また外の家等にも持来りしと云種々の寶物有と。
    此地(すべ)ての元地にて、爰の言は何處にても通ざる處なしと。
    (たとえ)を云はゞ、膳を何處にてもイタと云、イタは板也。
    當所にてヲツゝケと云り。
    家居(いえい)もまた他處より太く、其(かざ)り附も見事にし、客の應對も(そうじ)慇懃(いんぎん)なり。
    夷地にて庭の掃除さする等は無に、此處にては朝夕叮嚀(ていねい)に掃除等し、其風大に内地のさまに似たりければ、
    世ばなれし 保路(ぼろ)さる山の 奥えみし 都の手ぶり いつならひけん
    四日。
    早晨(あけがた)解纜ともづなをとき(ルビ)て下る。
    ヒフチンナイ(東川)、ポロケシヨマ(西中川、源小石多し)過て
    モウセウシナイ(西川) 瀧に成落、樹間より眺望の風景よろし。
    ロクントエト(東山)、モルヘシベ(東畑)、トナイ(西小川、小石多し)
    此源にソウホコマとて數丈の瀧有。
    タユシナイ(東川)、トユシナイ(東川)、トツホヲツナイ(東川)、
    ヲサツナイ〔長知内〕(西岸、人家廿軒、中川小石多し)
    名義、口が干る義也。
    タユシナイ(西川)、モ平(東、黒岩岬)、キソマフ(西川)、アノヒ(西川)、ヒタンノシケヲマナイ(同)、
    ヘテウコヒ (二股、是ポロサル〔幌去〕とヌカピラ〔糠平〕の別れ處なり)
    此邊よく開らけ、此方彼方に人家も見へ(いささか)夷地の心持はせざるなり。
    是より水勢大に遅く成たり。
    ヘヲサン(西川)、ポロコツコロ(東川)過て
    ベナコリ(東川、人家十一軒)
    名義、昔外より子供の育が能き故に(なづけ)しと。
    トウナイ(西川)、(びら)ケシヨマ(東川)、ニトツミ(東川)
    此處近年迄人家有しが、今モンベツ〔門別〕に引移りでなし。
    クトホウンナイ(西川)、
    カンカン(東川、人家三軒有、源エサヲマカンカン岳と云)
    名義、鹿の腸を童子へ神が呉給ひしに依て號く。
    越てビハウシ(東川、畑有、人家十五軒)、
    ヲホウシナイ(西川)、
    クロマトマナイ(同)
    此處文化度金丁(かねほり)を入れて金を掘し跡有。
    (あた)鑛石(サカツキ)多く捨れり。
    ルヲマナイ(西川)、ヲサツ(東川)、ヒンニ(西川)、
    ウロイロシキ岳(西岸小山)
    雑樹陰森として川中に(そびえ)たり。
    コヲイ(東川)
    源に温泉有。
    タユシナイ(西川)、シユマルフネナイ(同)、
    ニブタニ〔二風谷〕(東小川、畑有、人家廿七軒)
    名義、昔し此處の細工人木太刀を作り、其柄に金物を三ツ附て奉りしと云故事有。

      同上, pp.138-141
    過てフウレナイ(東川)
    此邊り皆、村境/\に標柱を立有。
    村々より案内に出る者、其地名と譯を問ふに、我持分の處迄教へ、境より外は少も教えず。
    仕馴(しなれ)し、恰も内地にて順見使等え村役の出る如く、何を聞ても只エラマシカレ/\と答けるぞおかし。
    ヒラチミ(西川)、ウトルヲマナイ(同)、トコンウトロマ(東川)、
    ハヨ(ひら)(西岸、平高十餘丈)
    舟を寄て分榛荊(れげれるいばら)て上る、凡百餘間、(そうじ)胡枝花(はぎ)(すすき)繁茂し、小綉毬(こてまり)咲盛て水を照す。
    上には(とど)五六株老立たり。
    下や(あたかも)屏碧水溶々、其風光恰も奥の北上河の高館(たかだて)の趣に似たり。
    重疊(じょうじょう)たる連山の上に糠平山・尖岳(アネノポリ)・沙流山等空を凌て聳ゆ。
    岩間には石楠花(しゃくなげ)・雪もゆう、種々目(なれ)異草一面に生じ、
    此處に一ツの小社を安置し、毘羅取(びらとり)大明神との額を懸し、八十年前は卿〔源義經〕の甲胃の像有しが、今は其像會所元に有と。
    [義經] 公、高館を去っての地に渡り玉ひ、此川筋に城郭を作り、時々爰に遊覧なし玉ひし處なりと。
    其地形の高館に似たるも奇と言べし。
    額拜(ぬかずきはい)して一首を木幣(いなう)にしるし奉りて、
    蝦夷人が 作る荒木の みあらかに ますぞと思へば 袖ぬれにけり
    下りてノホリハヲマナイ(西川)、平ハヲマ(東川)、アゝベツ(東岸川、小石多し) 越て
    ヒラトリ〔平取〕村 (西小川、人家卅一軒) 一條の町に成、大なる家有。
    ヲハウシナイ(西川)、セメ(同)、ニチンケウ(東小川)、ベンケニナ(同)、
    ニナ〔荷菜〕(人家跡、畑有)
    此邊平地に成、(やなぎ)赤楊(はんのき)原に成たり。
    ヲラウネナイ(西川)、サラハ村(人家十九軒)、ポロトコン(西小山)、セタラコツ(同小山)、
    トミルベシベ(東小川)
    昔し義經公の大軍が越たる故事有。
    シリ(東川)、
    シユムンコツ〔紫雲古津〕村 (東岸、人家三十餘軒)
    本名シュンコツにして、西地面の義也。
    畑多く有。
    夕方乙女(おとな) (イヨラツケ) 家に宿す。
    是召連しトレアンの兄也。
    家の正面、行器(ほかい)八十餘、太刀・短刀百餘振、鎗五本を餝(飾)り、余が来るを待もふけて挂甲(かけよろい)二領を餝りたり。
    何れも古製の物なれども、余此道に暗らきが故、目の及ざるぞ遺恨なり。
    五日
    平明(あけがた)、舟を(よそいて)下る(東川)。
    シラウ(東川)
    源はシユルクシヌタと云て、一里(ばかり)の一面烏頭(とりかぶと)の生たる處より来る。
    ベンケヲツフネイ(東川)、ヲツフネイ(同)、タツコフへンコロクシナイ(同)、タツコフ(同小山)、
    タツコフハナクシナイ(西)
    此山に一ツの瀧有り、風景よろし。
    サント(西川)、
    エソロカニ(同)
    名義、火箸に作る木有と。
    同名ユウブツ〔勇拂〕にも有。
    (あんずる)に此木漢名鐵掃木(てつぼうき)にて、至て火に強き木也。
    チヤシコツ(西方)
    是義經卿の城跡也と。
    時々石□(やのねいし)("奴"の下に"石")を出す。
    コンカラ(同)、チツヘシコロ(東川)、
    トイフル(西川)、ウヨツヘ(東川)、ヒタラバ(小川、人家三軒)、
    ヲコタスサル(渡場)
    此處東岸に舟を寄せ上るや、會所より今日もヲムシヤなれば早く来れと、馬一匹を廻し呉たり。
    扨往来より左り(上の方) の方に入(五丁)、トンニカ〔富仁家〕村 (人家) を過(廿丁)、イクレウシ(小川)、イ夕ゝウシ(小川) 過てヲコタヌサル(小川) の川上を越て行や、小堂有。
    見るに彌陀(みだ)の尊像を安置したり。
    其由を聞ば、大西(榮之助)氏が近頃建立せし由。
    聞ば、戯に其柱に誌し置。(三丁)
    大神の かためし國に いかなれば あらぬ佛の あとをたれけん
    ビラカ〔平賀〕村 (人家廿四軒) に行、乙名バフラ (蝦夷第一の舊家也) の家に至るや,慇懃に座を設け、粟飯を炊て我等に出す。
    其家筋の事等聞に、何一筆記も無れども、鑿々(さくさく)として答へ、別て感ずべきは、家の系圖と言ものを如此語りけるまゝ誌るし置也。
    是ウヨロ(小川)、チツベシコロ(小川)、シラウ(小川)、ヤムワツカ(小川)等越て (凡一里) 上るや、シユムシコツ〔紫雲吉津〕に至ると。
    トレアンは其道筋早爰に来り待し故、共に會所へ直に下りける。
    扨會所には山々の土人寄集り、また石場〔高門〕君も出役にして控書讀渡し、酒飯を皆の者へ被下、老も若きも酔を盡し、其國ぷりの(うた)謡ひ舞楽ければ、實に是ぞ太古のさまと蜂腰(こしおれ)一首を其壁に誌し置。
    千代ふてふ 田鶴(たず)のむら鳥 うちむれて 雛をはぐゝむ 舞の目出たき
    藤原〔石場〕高門



    引用文献
    • 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「戊午第三十八巻 東部 茂無辺都誌 全」
      • 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中巻』, 北海道出版企画センター, 1985, pp.609-634.
    • 松浦武四郎 (1859) :『東西蝦夷山川地理取調図』
    • 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』「沙流領」
      • 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984, pp.127-141.
    • 扇谷昌康, 島田健一 (1988) :『沙流郡のアイヌ語地名I』,北海道出版企画センター, 1988