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砂沢クラ (1983), pp.215,216
[1935年]
中学生のころから近文に遊ぴに来ていた高吉さんの息子の真志保さんも、東京の大学へ行って心臓を悪くしたとかで、登別に帰ってきていて、私たちのチセに遊ぴに来ました。
真志保さんは、夫に「和人にアイヌ語を教えるぐらいなら、ボクに教えて」と言ったり、私に「ボクがドイツ語を教えてあげるから、おばさんはボクにアイヌ語を教えてよ」と言ったりしました。
私は「貧乏に追われて、ドイツもコイツもないよ」と答えて、真志保さんに「パカなおばさんだ。覚えておけばいいのに」と笑われました。
ほんとうに、いま考えると、この時、ドイツ語を習っていたら、アイヌ語の研究にやってくる外国人ともいろいろ話せて楽しかったろうと、残念に思います。
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砂沢クラ (1983), pp.217-219
真志保さんにアイヌ語教える
登別温泉に来てしばらくして、金成さんから「私は妹の家に住むから、あなたたちは私の家に住んで( 知里)真志保にアイヌ語を教えてくれないかしという話がありました。
私たちは、それまでチセ(家)のうしろにあった古い小屋に住んでいました。金成さんの家は登別の駅の近くにあって、子供たちが学校に通うのにも便利でしたし、クマ彫りをして卸すのにも都合がよかったので金成さんの家に移ることにしました。
真志保さんは、熱心に、毎日欠かさず通ってきて、夫からアイヌ語を習っていました。物置でクマ彫りをしている夫の前に座り、ユーカラ(長編英雄叙事詩)やトゥイタック(昔話)を書いた紙をめくりながら、いろいろ聞くのです。
真志保さんの話すアイヌ語は、はっきりと聞こえない音、字で書けば小さく書く字が、よく抜けていたようです。たとえば「セコロイタック(そう言ったとき)」の「ロ」が抜ける、といったふうで、夫は「ロを落としちゃだめだ」とやかましく注意していました。
勉強の合間には、よく、夫が「アイヌ語など習ってどうするのだ」とか「アイヌ語は、もう必要のないものではないか」と言い、真志保さんが「世界中の人が覚えたがっている」とか「ほんとうの日本人なら、ほんとうの日本語であるアイヌ語を勉強しなければならないのだ」と答えていました。
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- 引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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