Up 知里真志保, 『アイヌ民譚集』「後記」 作成: 2016-12-27
更新: 2016-12-27


『アイヌ民譚集』(岩波文庫), 岩波書店, 1981. pp.165-171.


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後記

 私がー高へ入った当時, 物見高くして傍若無人な,そしてデリカシイなどはむしろ無きをもって得意としているかのごとき一高生は,回舎から出て来たばかりの, それでなくてさえ或る種の引け目から始終おどおどしていた私を包囲して.
r賞百の肉や鮭の肉を主食として育った君が,こちらへ来て米の飯ばかりいれずみ食べていて体には何ともないかJとか.
r口辺に入墨をした娘を見馴れた限に, 日本娘はシャンに見えるかい」とかいった類の,取りようによっては随分と痛い質問を浴びせては, 気の弱い私をひそかに泣かしめたものであった.
しかしながら,州郡の粋を集めたと自称する一高生の,なんら皮肉の意味でなしに発したこれらの質問は,当時の内地人→般がアイヌに関して有していた認識の実際の程度を示したものとも見られる.
しかもこの種の認識不足が, 五年後の今日においても, なんら改善されていないことの証拠を,私は,私の周囲にそこはかとなく捲起って来る事件の中に,いくらでも見出すことが出来る.
 私の最も親しい友人の細君がどこで読んだか「アイヌの娘は下の方よりもお乳を大事にするんですってね」というので.
rそんなことはないでしょう」と私が否定すると.
rだって野蛮人は一般にそうだというじゃありませんか」といい切るのだった.
この場合の野蛮人という言葉は,何の惑気もなしに発せられたのではあろうけれども,それだけに私はかえって,アイヌは野


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蛮人であるとの意識が, 内地人の脳裡に根深く潜在していることを知って,悲しく思ったのである.
 アイヌは決してーーその語の正当な意味においては一一野蛮えぞ人ではなかった.
松前藩が小藩の微力をもって広大なる蝦夷地を統治して行く必要上, アイヌをできるだけ愚かな状態に賓とみのわら巴うとして, 和人との混住,築・笠・草詮の着用, 和人語の習得などを厳禁し, ひたすら日本文化の流入を避けるのに腐心していた当時にあってさえ,アイヌはリュイス・モルガンのいわゆる未開時代の, 少くとも中層状態までは進んでいたと見ることができる.
にもかかわらず, いまだにアイヌを野蛮人扱いにする人のある裏面には,色々の原因が考えられるであろうが,私は特に文字を通しての影響を開題として取上げて見たい.
 文字を通しての影響は二つの方面から考えることができる.
第一は学術的な記述である.
これらはその意図する所が, 専ら過去におけるアイヌ生活を描くにあったにもかかわらず, あたかも現在のそれであるかのどとし世人の脳裡に誤って印象せうらみられがちな憾があった.
例えば最近に世に出た最もすぐれた国語辞典のアイヌの条を検して見ても, アイヌは北海道樺太に残存する原始民族で,男はアツシを着, 女は入墨をなし,最も重大な行事として熊祭を行う, という様な意味のことが書いてあって, 知らない人が読めば今のアイヌもやはりそうであるかのごとき印象を抱かしめる.
これは書く人の注意の行届かない点ももちろんあるが, 概念上の喰い違いがまた重要な原因になっている.


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 普通にいわゆる「アイヌ」という概念は, 厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せらるべきである.
人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ, 各々を支配する文化の内容は全然異る.
前者が悠久な太古に尾を()く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し,後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って,日本文化を直接に受継いでいる.
だから,「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」との間には, 截然たる区別の一線が認識されなければならないのである.
普通に「アイヌ生活」とか「アイヌ民俗」とかいえば,必然的に「過去のアイヌ」の生活や習俗を意味すべきはずなのに, とかく「現在のアイヌ」のそれのごとく誤解されがちなのは, 当然に区別さるべき二概念が,「アイヌ」なる一語によって、漫然と代表せられていることに起因する.
 文字を通しての悪影響の第二は, ジャーナリズムの悪意である.
かつて一人の男が生活苦に堪えられずして,ささやかな心得違いをしたことがあった.
その際に新聞は「アイヌ盗む」という表題で三面記事を掲げた.
rメノコ襲わる」とか, r旧土人自殺す」とか, rl日土人にも恵みの春Jとか, 善きにつけ悪しきにつけて必ず「旧土人」なる名称、を特筆大書するジャーナリズムの悪意は, 知らず識らずの間に一般人の脳裡に差別観念をひろさき植付けるのに役立っている.
また弘前出身の或る有名な通俗作家は自己の小説の中に再三再四「アイヌ」なる語を悪口代りに舟いているし,大学教授上りの或る有名な滑稽小説家は, 自己


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の小説に滑稽味を加えるために,アイヌに関して突に荒唐無稽な挿話の作為をさえあえてしている.
その他教育家のくせにげんき「アイヌと熊」などという街奇的な題目を掲げて,ジャーナリズムに迎合し,もって世人の印象を誤らしなる徒輩もある.
 かくて,今日においてもなお,案外に多くの人々が,アイヌとさえ聞けば,いまだに熊と交渉を()って,文献の示すがごとき原始的な生活を営んでいるものと想像し,アイヌ民族に関して何か書く所があれば,それが直ちに現在の生活であるかのごとく思惟してしまう.
例えば今でも男は(にれ)の皮糸で織ったアツシなるものを(まと)い,女は口辺に入墨を施し,熊祭の行事を営み,鮭や熊の肉を主食物となし,暇さえあれば詩曲(ユーカラ)聖伝(オイナ)を誦し合って,老も若きも例外なしにアイヌ語の中に生活しているものと思い決めてしまう.
 しかしながら実際の状態はどうであったか.
なるほどいまだに旧套を脱しきれない土地もあるにはある.
保護法の趣旨の履違えから全く良心を萎縮させて,鉄道省あたりが駅頭の名所案内に麗々しく書き立てては吸引これ努めている視察者や遊覧客の意を迎うべく,故意に旧態を装ってもって金銭を得ようとする興業的な部落(ぶらく)も二,三無いでは無い.
けれどもそれらの土地にあってさえ,新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて,着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである.
 これを私の郷里──北海道胆振国幌別郡幌別村──だけについていうならば, そこではもはや, 炉ぶちを叩いて夜もすがら謡い明かし聴明(ききあか)す生活は夢と化し,熊の頭を飾って踊狂う生活


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にいたっては夢のまた夢と化してしまった.
新しい社会における経済生活の圧迫や,滔々(とうとう)として流込む物質文明の眩惑(げんわく)は,彼らをして古きものを顧るに(いとま)なからしめた.
生活のあらゆる部門にわたって.
「コタンの生活」は完全に滅びたといってよい.
四十歳以下の男女はもちろんのこと,五十歳以上の男子といえども,詩政・聖伝のごとき古文辞を伝え得る者はほとんど無い.
わずるうおう綾かに残っている数人の老鍾たちですら,今では全く日本化しそろばんてしまって,その或者は七十歳を過ぎて十呂盤を弾き,帳面をあだな附け,或者はモダン婆の綜名で呼ばれるほどにモダン化し,或のすごナ婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである.
毎日欠かさず新聞を読んで婦人参政権を論ずる婆さんさえいるのである.
内地人の想像さえ許さぬ同化振りではないか.
 以上は私の生れた幌別村の現状である.
私は生れたのは幌別村であったが, 育ったのは温泉で有名な登別(のぼりべつ)であった.
そこではもはやアイヌの家が二,三軒しかなく,日常交際する所はほとんど和入のみであったから,私は父母がアイヌ語を使うのをほとんど聞いたことがなかった.
だから,祖母と共に旭川市の近文(ちかぶみ)コタンで人となった亡姉幸恵(ゆきえ)は別として, 私たち兄弟は少年時代を終えるまでほとんど母語を知らずに通したといってよい.
私が意識的にアイヌ語を学び始めたのは,実は一高へ入ってからのことである.
本来は母語であるはずのアイヌ語も, 私に関する限り, 英語・仏語・独語などと全く同様に,遙か後になって習得された外国語に過ぎない.
学校の休みで帰省するごとに,幾らかの暇を()いては前述の婆さんたちを訪ねて廻り,


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一語一語の意味を,根問い葉問いしては丹念にノートへ書留めて, どうやら詩曲が分るようになったのはつい最近のことである.
従って金田一先生が本書巻頭の序文において「吾々ストレインヂャーによって歪められざる, 純真な話し手の言語感情を知るために云々」[(註)] と仰せられたのは,やはり一般の先入観念によって,不用意にも歪められたお言葉である.
私がその中に生れ, それと共に二十数年間生活して来た所の日本語においてこそ, 本当の言語感情が湧くであろう.
僅か数年の,それも総計して十回に充たざる帰省によって,片手間に獲た所のアイヌ語の智識は,いうところの「話し手の言語感情Jなるものからは,未だまだ遠い所にあるのである.
もしもそういう意味において,私の訳文を一般の翻訳と別価値に見ようとするならば,それは飛んでもない誤解であることを, 特にお断りしておく.
 今本書に収めたパナンベ説話の大部分は,私がアイヌ語を学び始めた頃の筆記を整理したものである.
総数十五に満たない少さではあるが, 村の現在はもうこれ以上の採集が望まれないような状態になってしまった.
婆さんたちも,パナンベ説話ならまだまだ幾らでもあるといいながら,もはや思い出すことさえできないほどに忘れはてている.
私は決してそれを悲しむものではない.
反対に, 暗い陰に包まれている古い伝統を忘れ去って, 一日も早く新らしい文化に同化してしまうことが,今ではアイヌの生くべき唯一の道なのであるから, 幌別村が他村に百歩を先んじて,早くもそういう状態に立到ったことを,私はむしろ喜ばしく思うものである.
それとともに,捨てて置けば


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当然に跡形もなく朽果ててしまったはずの古い生活の断片を,僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残すことを得た愉快さを私はしみじみと感ずるのである.
 この書を編む機縁ともなり,かつ御懇篤な序文をさえ賜わった思師金国一先生,また先には亡姉幸恵の,そして今また私のささやかな原稿を進んで世に送ることの役目を引受けて下さった郷土研究社の岡村千秋氏,並ひ‘に私のアイヌ語の教師を勤めてくれた故郷の老盤たちー特に伯母益法マツ子ーに対して,それぞれ心からなる感謝を捧げてベンを晶く.

昭和十年二月十八日
知里真志保


註 : 対応箇所:
「何はともあれ, 本書は, 胆振方言を胆振人なる君の筆で記録し, 君の筆で訳出したものであるから, アイヌ語の綴り方, 切り方, また邦訳の一語一語の全く手に入った訳出は, 何人も追随を許さないものである.
形は小さいけれども, 実質においては, 今まで出た吾々ストレインヂャーの筆に成るものと, 本質的に価値を異にするものであり, かつ, 姉さんの『アイヌ神謡集』が(すで)にそうであった様に,今度も, 吾々ストレインヂャーによって歪められざる, 純真な話し手の言語感情を知るために,故意に, 一言の干渉も注意もせずに原稿も校正も全然著者自身の創意に任せて成る本書はこの点, 永く, アイヌ語学界に不滅の光を点ずるものであるといってよかろう.」