Up 貝澤正 :「二風谷アイヌ観光」での立ち位置 作成: 2017-03-17
更新: 2017-03-17



     
      萱野茂「おのおのが信じた路」
     貝沢正『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.279-284
     私自身は夏の間だけ七年間を観光アイヌをやりながら飽きもせずにアイヌの民具蒐集に力を入れ、このまま観光地にいたら二風谷村の先行きは明るいものではないと思いました。足元の明るいうちに村へ帰ろうと思い、昭和42年までで村から出るのを止め、43年に正さんにお願いをして国道沿いに観光みやげ店を建ててもらいました。それが二風谷におけるみやげ物屋の草分けになり、現在も続いているのです。
     みやげ物屋があっても見る物がないとお客は来てくれない。そこで私自身が買い集めた物を展示して見せる場所を、ということになって、二風谷アイヌ文化資料館構想が生まれたのです。そこで正さんに建設期成会長になっていただき、寄付集めに奔走し、私の日記によると二人で歩いた延べ日数は60日にもなっています。
     建物が出来上がったのは昭和46年11月、12月13日に仮検定が終わり、近所のお年寄り方に来てもらって内輪だけでアイヌ風のお祝いをしました。
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     次の年、昭和47年6月22日、二風谷アイヌ文化資料館開館、初代館長貝澤正、副館長萱野茂になったわけです。昭和五七年までの10年間、館長として館の基礎を築き上げてくださり、平成3年夏には、工事中であった現在の二風谷アイヌ文化博物館の建物も見にいってくださいました。


      二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    pp.233-240
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40 [1965] 年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。まず、貝沢勝男が長野浅次郎の土地の一部と自分の水田を交換して現在地を手に入れ、当時は一面の湿地帯であったこのあたりに土盛りをして、今資料館前信号機のあるあたりに雑貨店を開業した。
     その次に貝沢保が現在軽食喫茶「花梨」の所に「ユーカラ食堂」を開店した。そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。昭和43 [1968] 年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46 [1971] 年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。観光客の増加に伴い昭和48年に二風谷観光センター(静内資本)、昭和49 [1974] 年に民宿「チセ」(貝沢薫) が開業したが、現在は観光センターは休業している。
     昭和45 [1970] 年から始まった8月20日のチプサンケ祭りの夜は、毎年この商店街前の広場で懸賞付盆踊り仮装大会も開くようになり、昭和53年には、町の一部補助と各戸の負担金によって商店街前の広場も舗装された。
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     二風谷での木彫熊生産は、昭和37年旧生活館に旭川から千里敏美を講師によんで希望者に受講したのが始まりだが、昭和46 [1971] 年には新しい生活館 (現在のもの) ができたため、古い生活館は、第2共同作業所として転用され、ここで二風谷民芸が生産されはじめた。この共同作業所 (昭和50 [1975] 年焼失後、現在地に今の大型共同作業所が建設された) の山手側に、二風谷アイヌ文化資料館が着工、昭和43 [1968] 年には金田一京助歌碑も建設されているところから、国道から資料館に向かう舗装道路入口両側にも民芸品店や観賞石販売店が軒を連ねるようになった。
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     アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
     その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。
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     このように幕末から明治時代にかけて、すでに婦女子の仕事として現金収入の中にアットゥシ織は大きな位置を占めていた。
     明治28年生まれの貝沢へかすぬなどもシナ皮をとってきでは織り、カロップ (火打ち道具などを入れた小型の袋) に加工しては売っていた。
     専業に織って販売網を広げたのは、貝沢はぎ、貝沢みさをで、昭和20年代末からは旭川市の民芸社が大量の買いつけをするようになってきた。
     やがて昭和30年代後半から民芸品ブームが起こり、造りさえすれば何でも売れる時代が来た。これといった現金収入がなかった村では今まで女の仕事だったシナ皮取りが男の仕事になり、糸をつむぐもの、織る者と二風谷を中心にアットゥシ織が大量生産され、婦女子は夜も寝ないで働いた。二風谷の暮らしがよくなった基礎は、アッ卜ゥシと婦女子の力によるといっても過言ではない。
     原料になるシナ皮の木を近辺でとりつくすと馬車や車で遠くまでシナ皮はぎに出かけることになった。シナ皮をはぐ期間は夏の間のわずかの期間でしかないが、木の皮が全部むかれると木が枯れてしまう。昔はどこの山でも自由にとれたが、木の皮は一部しかはがなかったので、木が枯れることはなかった。しかし、現金収入の道に血まなこになる時代になると昔の信仰──はいだ木の着物に帯をしめ供物をささげて感謝する風習──は忘れられ、木の身ぐるみをすべてはいでしまったので、国有林には白く皮がはがれたシナの木が目立ちはじめ盗伐問題が起きて来た。振内、厚賀、鵡川の各営林署から平取町役場に抗議がくるようになった。二風谷を中心とした人々の生活の問題でもあり、町としても放置できず対策がすすめられた。
     昭和44 [1969] 年10月「アツシ織生産組合」が設立され、組合員は他人の山でシナ皮を取らないこと,皆伐の山を世話してもらい共同で原料のシナ皮を確保することを申し合わせた。
     賛同者は94人で、設立総会で組合長二谷貢、副組合長貝沢ハギ、貝沢しづ、庶務会計黒田浪子を選んだ。損害を与えた山の木の代金として、12万5千円の特志寄附を集めたら、合計23万5千円が集まり、木代金を払った残りを組合の運用資金とした。
     町役場と連絡を取りながら皆伐予定地の山で、木代金を払って共同採取をするようになった。以来盗伐はなくなったが、しかしアツシ原反の売れゆきは落ちこんでしまい、各家庭から聞こえたハタ織の音は消えてしまった。
     今は、国道沿いの民芸品店の店先で実演販売されていたり、年輩の女性の冬期作業で織られた製品が店先で花びん敷などとして切り売りされている。
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     昭和30年代末には沙流川の石が観賞石として注目されるようになり39年から貝沢末一、貝沢留治らが専業販売し始めた。なお二風谷から初めて販売された石は、昭和32年に登別温泉玉川商店のチセの前に飾られたものである。
     昭和39年1月には「日高銘石保存会」が設立され (会長貝沢正、会員発足時15人。昭和43年20人)、庭石、鑑賞石の採取と加工販売をしている者が中心となり、木彫りや土産品店を業とする者や石の愛好家が加わって、会員の親睦や原石の払下げ、加工技術の研究や道内道外市場の開拓などを行なった。
     昭和39年2月には、萱野茂・貝沢末一兄弟が二風谷の石を初めて津軽海峡を渡らせ、つてを頼って東京都世田谷区役所のロビーで展示即売会を開いて純益27万円をあげた。この利益は、二風谷部落会に寄附され、当時行なわれていた二風谷小学校の給食費3年分に充当された。
     このようにして先鞭をつけられた沙流川観賞石の販路は、昭和47年には本州向けが8割を超えるようになり、トラックによる庭石庭先訪問販売を業とする者も増え、都市郊外農家の造園ブームが起こった昭和45年頃からは庭石と庭木を組み合わせた造園技術を体得した者が造園業に手を拡げていった。
     昭和53年に開場した二風谷ファミリーランドの石庭は、ニ風谷の八香園 (代表貝沢守雄・貝沢留治) が造園したものである。


      菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.
    pp.209-211.
     厚生省や北海道庁は、こうしたアイヌの救済対策を検討した。 ‥‥‥
    結局 ‥‥‥ 生活保護法を強化したような形で、特別に予算を組み、アイヌ保護対策を進めようということになった。 事業の名目は「北海道不良環境地区対策事業」と決まり、三十六年から五カ年計画で着手した。
     さて、この事業が現地でどのように実行されているのだろうか。 私はモデル地区に指定されている日高平取語(びらとり)町の二風谷(にぶたに)コタンをたずねてみた。
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    生活館の運営についても、同じような不満が聞かれた。
    生活館で教えてくれる職業教育とは「クマ彫り」に限られているからだ。‥‥‥
    もっと機械技術とか産業人としての教育は考えられないのでしょうか。 コタンの若者たちは、そういって生活館でのクマ彫り講座には気の進まぬ表情だった。
    コタンの指導者、貝沢正さん (五三歳) はこのことについて、
    本州の部落解放運動を調査して分かったことですが、むかし本州で部落のひとたちをエッタと呼んで非常な差別扱いをしていた。 戦争中のことだが、政府は部落民に竹細工とか牛馬の皮の加工など特殊な技術を指導した。 もちろん、部落民救済対策という名目で行われたことだ。 そして、竹細工の家具、台所用品を売りに歩くと、あのひとはエッタだ、とうしろゆびをさしたものだという。
    アイヌの保護政策として、生活館でコタンの青年たちにクマ彫りを指導するのは "エッタの竹細工指導" と同じことではないか。
    私たちは本州の部落民が経験した苦しい道を歩かされるのはごめんだ
    と語り、新しい時代の職業指導を望んでいた。