Up 松浦武四郎 : 略伝 作成: 2018-12-13
更新: 2018-12-13


      高倉新一郎 (1969), pp.731,732 (「近世蝦夷人物誌 解題」)
    弘化二(一八四五)年松前に渡り、西は瀬棚から東は箱館を経て知床岬までを極めてから蝦夷地に深い興味を持ち、
    翌[1846]年再び江差を訪れ、医師に従って棒太の南部を巡回し、更にオホーツク海岸を知床岬まできわめて江差に越年。
    嘉永三(一八五〇)年三度渡航して、場所請負人の船にのって国後、択捉を踏査し、蝦夷地全域をほぼ見ることができた。
    そこで彼はこの紀行を日記として、安政元[1854]年これを水戸徳川斉昭に献上し、更に蝦夷地図を作って幕府に献上した。
    折から、わが国はロシアと国境問題を論じている最中であったので、蝦夷地に対する彼の知識は高く評価され、翌[1855]年箱館奉行雇を命ぜられ、
    安政三(一八五六)年西北蝦夷地受取のため全道を巡回する箱館奉行支配組頭向山源太夫の手について、蝦夷地新道見立のため、単独で、人の滅多に歩かない所を歩いて全道を一周し、樺太はタライカまで踏み込み、多くの献言を行ない、その紀行をも日記として箱館奉行に奉呈した。
    その功が認められ、安政四[1857]年、蝦夷地一円山川地理等取調を命ぜられ、五[1858]年まで二ヵ年間北海道内を縦横に踏破した。
    凡そ名ある川はすべて溯ってその上流に分け入り、内陸の状況を明らかにした。
    彼はこの状況を詳しく日記に記録すると共に、詳細な地図を作り、
    六[1859]年以後は専ら調査したところをまとめ、
    経緯度各一度を美濃紙一枚にあらわした「東西蝦夷地山川地理取調図」二十八枚としてこれを刊行し、
    更に紀行を整理して「東西蝦夷地山川地理取調紀行」として逐次刊行し、二十二冊に及んだ。
    文政五(一八二二)年伊能・間宮の測量を基として北海道の地図はほぼ今日の形になったが、それは海岸線だけで、内陸がほとんど描かれていなかったのを埋めたのである。
    明治初年大学南校によって刊行された「大日本実測図」蝦夷諸島の部は、伊能・間宮の測量による外部に松浦の謂査にかかる内陸部を加えたものであった。



  • 引用文献
    • 高倉新一郎 (1969) : 高倉新一郎[編]『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969.