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『菅江真澄集 第5』(秋田叢書刊行会, 1932), pp.522-526
相(アヒ)泊に来けり。
このあたりは羆(クマ)のいと多くあれて、放ち養ふ野原の馬をひしひしととりさきくらふなど、行みちすがら、あないのもの話るを聞て身の毛もいよだち、すゞろ寒きおもひして麼都也(松屋)か碕(砂原町)
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天註──蝦夷辞にや、又はシャモのイタクにて松屋か埼にや
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にいたりて、高岸に立のぞみて、みたにの底のやうに海べたを見おろせば、波よる岩の上に青草をひきむすびたる中より、煙の細くたちのぼるは、海士などの仮りに小屋して住むならん。
「遠渡りして魚獵
する蝦夷を九曲の
高岸より見たる」
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‥‥‥
こゝをゆけば、タぐれ近うサハラ(砂原)といふ処につきたり。
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天註──むかし弱檜の磯山にありし名にや、砂埼のあれば砂原てふ名ありけるにや、サハラちふ夷辞にや〕
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このコタンはシャモのみ家居してければ、なにくれと、めやすげにかたらひて、こと国より日の本に入来しこゝちぞせられたる。
こゝ は、内裏岳(ウチウラガタケ, 駒ヶ岳)の麓にして浦浪も高し。
見やる沖の流れ洲のやうなる、布一むらを、うなゝかに引わたしたらんかとさし出たるを砂埼とて、エドモの浦(室蘭)に舟路のいと近し。
「曳絲形は往復の街道
繍絲形は鍼路にして凡斯離宇地夜末より
衣度母の浦まてめくりめくりたる
磯回船路のあらましを圖にしてしらしむ」
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