Up 5月 30日 作成: 2024-11-30
更新: 2024-12-01







      『菅江真澄集 第5』(秋田叢書刊行会, 1932), pp.522-526
    相(アヒ)泊に来けり。
    このあたりは羆(クマ)のいと多くあれて、放ち養ふ野原の馬をひしひしととりさきくらふなど、行みちすがら、あないのもの話るを聞て身の毛もいよだち、すゞろ寒きおもひして麼都也(松屋)か碕(砂原町)
     〔 天註──蝦夷辞にや、又はシャモのイタクにて松屋か埼にや
    にいたりて、高岸に立のぞみて、みたにの底のやうに海べたを見おろせば、波よる岩の上に青草をひきむすびたる中より、煙の細くたちのぼるは、海士などの仮りに小屋して住むならん。
    「遠渡りして魚獵(レバ)
     する蝦夷を九曲の
     高岸より見たる」

     ‥‥‥  
    こゝをゆけば、タぐれ近うサハラ(砂原)といふ処につきたり。  
     〔 天註──むかし弱檜の磯山にありし名にや、砂埼のあれば砂原てふ名ありけるにや、サハラちふ夷辞にや〕
    このコタンはシャモのみ家居してければ、なにくれと、めやすげにかたらひて、こと国より日の本に入来しこゝちぞせられたる。
    こゝ は、内裏岳(ヲシラナヰノノボリ)(ウチウラガタケ, 駒ヶ岳)の麓にして浦浪も高し。
    見やる沖の流れ洲のやうなる、布一むらを、うなゝかに引わたしたらんかとさし出たるを砂埼とて、エドモの浦(室蘭)に舟路のいと近し。
    「」


    「曳絲形は往復の街道
     繍絲形は鍼路にして凡斯離宇地夜末(しりうちやま)より
     衣度母(えとも)の浦まてめくりめくりたる
     磯回船路のあらましを(カタ)にしてしらしむ」