Up 家系 作成: 2019-01-05
更新: 2019-01-05


      久保寺逸彦 (1953), pp.76-79
    沙流川中・下流コタン分布図


    二風谷(ニブタニ)コタンは日高国沙流郡平取(ピラトリ)村の一(あざ)で、平取市街より一里余の川上に位置する。
    旧ニプタイ Niptai, 旧ピパウシ Pipa-ushi、旧カンカン Kankan の三コタンが集合して出来た農村部落で、三谷國松氏に依れば、その成立は今より約80年以前、明治10年から15年 (1877〜82) の間であったという。
    旧ニプタイの人々は、その地名の音訳、二谷姓を、
    旧ピパウシ・カンカンの人々は、ピパウシ の意訳、貝沢姓を
    名告っている。
    (地名を姓としたが故に、血統的には同族でありながら、姓が違っていることがある)
    昭和26年3月現在の調査では、アイヌの戸数六一戸・人口三三七人で、他に ‥‥
    (都立大の鈴木二郎氏の調査に依る)
    家系の上から、アイヌの人々は七系に分けられる。
    名取氏が調査されたのは、昭和14年(1939) であるが、同氏も七系に分け、当時生存した故老の名によって、その家系の名称、とされた。
    私は、私の調査に依り、各家系の遡り得る最も遠い祖先名により、仮に七系の呼称とするが、次の如くである。
    I Shutusan 系 (名取氏の Konderam 系)
    貝沢姓。
    遠祖の発祥地は不明であるが、旧 Ninachimip (二風谷より川上、ペナコリ部落の少し下手) か Kankan へ、更に現在棲んでいる Osat 沢の向いに移って来たといわれる。
     ‥‥
    II Tunkitainu 系 (名取氏の Kenkichi 系)
    貝沢姓。
    祖元 Tunkitainu は上流の荷負(ニオイ)の人であるが、四代 Hao の時、二風谷に移住した。
     ‥‥
    III Kemasuye-kur 系 (名取氏の Uwesanashi 系)
    貝沢姓。‥‥
    Kemasuye-kur は沙流川本流 Shumarpe (二風谷の上流、二又で川は二つに分れ、右が支流ヌカピラ川、左は沙流本流で、Shumarpe は振内市街 Hure-nai 奥にある。) に城塞(チャン)を構えて棲んだが、
    Ikohuye (四代) の時、旧ピパウシに移り、
    Petranke (五代) の時、Pon-osat (Osat 沢の前の小沢) に移ったという。
     ‥‥
    IV Iruweuk 系 (名取氏のShirambeno系)
    貝沢姓。
    遠祖 lruweuk は本沙流人 Shi-sarun-kur ‥‥ から出たという説があるが明かでない。 (祖印などの上から、かく推定されると、既に名取氏もいわれている。)
    lruweuk より数代不詳にして Ikurukasan に至る。
     ‥‥
    V Yaiparo 系 (名取氏のI叩oashi 系)
    貝沢姓。
    祖元 Yaiparo は川下の平賀(ピラカ)コタン (沙流川口近くにあった部落、明治31年の洪水後、Uyokpe 部落と合併して、今日の新平賀 (福満) の地に新村をつくる) から旧二風谷(ニプタイ) (曾長 Pikun (VI系十一代) の頃) に移り住み、後現在の二風谷に住むに至った。
     ‥‥
    VI Humoshirush 系 (名取氏のCharinumke系)
    二谷・貝沢の二姓。
    この家系は二風谷・平取その他に亙って繁栄した大豪族であり、平取・二風谷の曾長 Kotan-kor-kur は何れも、この系より出ている。
    この系は一六(七)代まで遡り得るが、祖元 Humoshirush は静内(シズナイ)郡 Itunnap 若しくは新冠(ニイカップ)郡 Pipok (或は沙流郡厚別 Ap-pet とも) から平取に来たといわれる。
    七代 Wenhottorは今の平取の川向のアベツに移る (或は六代 Nipekeran の時にとも)。
    Wenhottor の弟 Pakoton はアベツより更に平賀に移り、その裔からは、後、平取の大酋長となった Penriuk や Masarek-kur (万吉) などが出る。
    (松浦武四郎の東蝦夷日誌三篇にピラカの乙名バフラの家系を載せた中に、ハコートンの名があるが、Pakoton とすれば時代が新し過ぎる。)
    Wenhottor の子 Nishishke (八代) は二風谷沢 (旧名Niptai) の城主となる。
    Nishishke の二子中、兄 Arunka (九代) は二風谷の loi 沢の城主となり、弟 Kiru-ainu は平取に行き、その子孫大いに栄えた。
    Itaktukan、Kotan-pira、Pawashnure (金太) 氏など、その裔である。
    Arunka の孫Heturire(十一代) は Pipa-ushi に住み、その弟 Pikun は二風谷に住んだ、が、Pikun の孫 Ikankuma、Hashu (何れも十三代) の二人は、二風谷に止り、Imosuye (十三代) は平取に移った。
    Imosuyeの子、Nipekesan (十四代)の子孫、また平取に栄え ‥‥、Kotorokte (十四代) は二風谷に帰り住んで、また栄えた。(二谷國松氏などこの系で十六代目)
     ‥‥
    VII Ikashiyuk 系 (名取氏のTupareashi系)
    日川姓。
    Pipaushi に住んでいたが、今は断絶した。
    Ikashiyuk は元、上流の長知内 Osat-nai の人である。
     ‥‥


    引用文献
    • 久保寺逸彦 (1953) :「北海道日高国二風谷コタンに於ける家系とパセ・オンカミ「尊貴神礼拝」」
      • 『金田一京助博士古稀記念 言語・民俗論叢』, 三省堂, 1953.
      • 収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.71-101
      参考文献
      • 二風谷部落誌編纂委員会 (1983) :『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.