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「仏典」と呼ばれているものは,原始仏典と仏教がつくる典籍の二種類である。
前者は,ブッダの伝説である。
 後者は,ブッダを神格化するフィクションである。
 
 ブッダを知ることが目的で仏典にあたろうとするときは,後者は無視する。
 あたるべき仏典は,原始仏典である。
 原始仏典は,ブッダを超人化するフィクションだが,神格化までは行っていない。
 よって,等身大のブッダを窺う余地が残っている。
 
 
 原始仏典は,ブッダの時から数百年経って形を現す。
 それまでは語り継ぎである。
 語り継がれてきたことを記すのが,仏典づくりの最初。
 そして,先行するテクストに尾ひれをつけるという進展になる。
 
 こういうわけで,原始仏典の内容は,異なる仏典の間だけでなく,一つの仏典の中でも矛盾するところが多々ある。
 その矛盾は,娑婆の道徳の導入によるものである。
 そこで,この類を切り捨てる。
 そうすると,残る部分は僅かとなる。
 
 仏典の数はすさまじい。
 しかしブッダを知ることが目的であれば,結局,中村元訳の『ブッダのことば スッタニパータ』『神々との対話』『悪魔との対話』の3つで事足りる。
 この中で,重複減らし,矛盾する内容の切り捨てをする。
 そうすると,抽出されるのがほんとうに僅かとなるわけである。
 
 
 このことに対し,仏典にすさまじい数があることは無駄,と思ってはならない。
 それらには,「捨て石」という存在理由がある。
 
 
 惠子 謂莊子 曰:子言「無用」。
	莊子曰:知「無用」 而始可與 言「用」矣。
 夫 地 非不廣且大也,人之所用 容足耳。
 然則 廁足 而墊之 致黃泉,人尚有用乎?
 惠子曰:無用。
 莊子曰:然則「無用之為用」也亦明矣。
 (『荘子』, 雑篇・外物 7)
 
 惠子が莊子に言う:
		
	莊子が言う:
 「無用」を知ってはじめて「用」を言うことができるからさ。
		惠子が言う:
		
	荘子が言う:大地はすごく広くて大きいが,人がそれを用いるのは足がはいるだけのところだ。
 そんなら,足の分だけ残して黃泉まで削り取ってしまう。
 それでなお,用があるかな?
 というわけで「無用之為用 (無用が用になるということ)」もまた明らかだろ。
		 
 
 
引用文献
	
	中村元 (1991) : 中村元[訳]『ブッダのことば スッタニパータ (Sutta-nipāta)』, 岩波書店	1991
	中村元 [訳]『神々との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 1〜3)』, 岩波書店, 1986.
	中村元 [訳]『悪魔との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 4〜11)』, 岩波書店, 1986.
	 
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