「ブッダ」は,「空・因縁」の存在論と出家主義の二つである。
したがって,「ブッダ」を使うとは,ブッダの「空・因縁」の存在論を引用するか出家主義を引用するかの二つである。
「空・因縁」の存在論は,今日では引用する価値は無い。
今日の科学に回収される内容だからである。
即ち,「存在の階層」「場の力学」「複雑系」「進化」「生物」といった主題に回収される。
今日「ブッダ」にまだ使い途が残っているとすれば,出家主義の方である:
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Sutta-nipāta, 3.1
眼ある人 (釈尊) はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。
「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、煩いがない」と見て、出家されたのである。
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Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga, 1.2.9
二〔尊師いわく、──〕
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わたしには庵・巣・つなぎの糸はない。
わたしは束縛から解脱している。」
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三〔神いわく、──〕
四〔尊師いわく、──〕
「 |
母が〈庵〉である。
妻が〈巣〉である。
子らが〈つなぎの糸〉である。
妄執が〈束縛〉である。」
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Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga, 1.1.10
一 傍らに立って、かの神は、次の詩句を以て、尊師に呼びかけた。
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森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」
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二 〔尊師いわく、──〕
「 |
かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくするとともなく、ただ現在のことだけで暮らしている。
それだから、顔色が明朗なのである。、
ところが 愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。
──刈られた緑の葦のように。」
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今の時代は,人の輪から外れることは,ネガティブな主題として扱うことになる。
その表現は,じめじめした自然主義文学みたいになる。
「逃避」「腰抜け」「背信」「卑怯」等が,この場合のトーンになるのである。
「ブッダ」は,これと正反対である。
「逃避」「腰抜け」「背信」「卑怯」は,愚かな人々から脱け,愚かな人々を「愚かな人々」呼ばわりできる立場になるという,この上なく肯定的な意味になる。
よって,ブッダの出家主義は,今の時代を相対化するものとして,化石資料のように保存しておくのがよい。
また,ひとはブッダを「神様・仏様」と思わねばならないことになっている (仏教の法事をするとはこういうことである) から,娑婆から逃げようとする者は「お釈迦様はこれを良しとしている」を捨てぜりふに使うというのもよい。
引用文献
- 中村元 (1991) : 中村元[訳]『ブッダのことば スッタニパータ (Sutta-nipāta)』, 岩波書店 1991
- 中村元 [訳]『神々との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 1〜3)』, 岩波書店, 1986.
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