- 「密教」は,「ジャイナ教の密教」「ヒンドゥー教の密教」「仏教の密教」のように立てられる概念
- 仏教密教の二面性
- 大衆への迎合
- 反合理主義
a. 大衆への迎合
b. 反合理主義
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中沢新一(2005), pp.26-28.
そもそも仏教とはインドにおいて果たして何だったのでしょう。
仏教はある意味で都市的な側面を強く持っています。
そのことはゴータマ・プッダの出自を見ても分かります。
ゴータマが衝撃を受け出家を志したのが、都市の周辺部において見かけた光景がきっかけになっているというのはよく知られた話です。
ゴータマは都市の周辺部で死の現実に触れることになりましたが、それは都市的な思考においては、都市の中心部とりわけ玉城においてはけっして生活の表面にさらされていてはならない現実だったからです。
ゴータマがその現実にふれて衝撃を受けたとはよくいわれることですが、思想的にいえば、ゴータマはこのとき自分がいままで都市的な思考のつくりあげる世界幻影のなかで目が見えなくなっていたことを知って、その幻影の外に出て行こうとした、というのが、正確なところだと思います。
ゴータマは森のなかへ入っていき、そこでヴェーダ化したシヴァ系行者の弟子になり、彼らと同じことをやった。
しかしゴータマはそこには解決がないと見た。
このときの彼の認識をいま風に言うと、既に国家が出現してしまった時代に、かつての自然宗教だけではこれに対峙できないと考えたのだろうと思います。
そこでゴータマは自らの精神共同体を町のはずれに作ることにします。
都市からは決して離れていない。
そして森の中でもない場所に仏教共同体サンガをつくった、ここが味噌でしようね。
都市でもない森でもない中間的なところに新しいタイプの思想と生き方を実践するための共同体をつくる。
そしてお布施は都市からもらう。
つまり都市によって生命を保つ。
農民から積極的に求めようとはしていません。
あくまでも基本的には都市に養ってもらおうとしています。
都市と森の中間の場所で、どちらにむかつても開かれている共同体です。
この考えは当時二極に分解されようとしていたインド社会においては、まことに革新的な考え方でした。
当時ももちろんカウンターカルチャーの実践者はたくさんいて、彼らは伝統的なシヴァ派の行者の生き方をしていましたが、彼らにはこのような共同体は築けませんでしたし、築こうという気もなかったでしょう。
その点、ゴータマ・ブッダはリアリストだったのでしょう。
既に国家が出現し、帝国が出現している時代に森と自然に逃走するだけで問題が解決されることはありえないと考えたのでしょうね。
そこであまりにもアナーキーな教えはすべて拒否して、リアリスティックな視点で世界の本質を見抜いていこうとしています。
だからこそ都市と森の中間に自分たちの共同体を作ったのでしょぅ。
その矛盾した場所こそが、仏教の本質だったと言えるかもしれません。
しかし都市の権力に巻き込まれずにその中間的な位置を保ち続けるのは容易ではありません。
都市から距離を保ちつつ、都市によって養ってもらう仏教は、しばしば都市的な権力に近づきすぎてそれに取り込まれてしまうようになります。
そこから都市的な思考への否定性をもった考えが、育ってくるようになりました。
大乗仏教のなかから成長した密教がそれです。
密教にはきわめて国家的・都市的な側面と、非都市的で自然的な側面が、同時に含まれています。
権力とくっつきやすい性格と、権力を否定してしまおうとする性格をあわせもっていて、まるで空海の人生そのものですね、密教というのは。
ある意味ではブッダが否定し去ったものこそが、密教を成立させる要素となっています。
それはルードラのような恐るべき自然力を体現するシヴァ的な要素のよみがえりです。
自然の宗教のよみがえりとも言えます。
仏教は密教にむかつて展開していくときに、一度は否定した自然の宗教としての要素を、仏教に接ぎ木して、変容させようとしました。
顕教はあくまでも都市の原理と親和性が高いので、すぐに学問化します。
ところが密教は反学問としてのシヴァ的要素を強くもっています。
密教思想家はしばしば、現実を言語化された知の体系のなかに捉えこんでしまう学問を拒否しようとさえしました。
そしてじっさい密教はそちらの方向に発達していきました。
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- 参考Webサイト
- 参考・引用文献
- 中村元[著]『密教経典・他』(現代語訳大乗仏典 6), 東京書籍, 2004.
- 頼富本宏[編著], 今井浄円[著], 那須真裕美[著]『図解雑学 密教』, ナツメ社, 2005.
- 中沢新一 (2005) :「最後の空海,未来の空海」
『空海──世界的思想としての密教』, 河出書房新社, 2006, pp.16-31.
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