Up 理趣経 作成: 2018-06-18
更新: 2018-06-18


  • 玄英三蔵訳『大般若波羅蜜多経』「般若理趣品」

  • 不空三蔵訳『大楽金剛不空真実三摩耶経 (般若波羅蜜多理趣品)』
    • 「その意味は「大いなる楽は金剛のごとくに堅固・不変で空しからずして真実であるとの仏のさとりの境地を説く経」ということです。
      旧来の伝統的な仏教では楽しいというようなことはいけない、快楽を求めてはいけないというような傾向だったのですが、ここでは楽しいことを積極的に求める、安楽を追求することをまず題名の中で提示しているのです。」
       (中村元『密教経典・他』, p.97.)

  • 「理趣」
    • 「「理趣」とは,サンスクリット語の naya の訳で、道理、ことわり、すじみちという意味です。宇宙の 真理を意味しています。」
       (中村元『密教経典・他』, p.91.)

  • 「三摩耶」
    • 「三摩耶はサンスクリット語のサマヤ (samaya) の音写で、samaya とは、インド一般では「約束」「誓約」の意味 である。
      そこで真言密教ではさらに「三摩耶」が「誓願」「本誓」「本願」を意味することがある。
      ところでその語源的意味を考えると、sam は「共に」で、aya は i (行く) という動詞の語根からつくられたもので、一体におもむく、合一するという意味を活かして、語源に由来する哲学的解釈が施されると、仏のさとりと合一した境地、仏の智慧と合一した境地をいい、くだいていうと、実在と現象との差別のなくなった境地ということになる。」
       (中村元『密教経典・他』, p.93.)


  • 経の要旨
    • 「仏のはたらきのあらわれは、いろいろです。
      その智慧も、はたらきの異なる局面に応じていろいろに名づけられています。
      人々は、それぞれの身に応じて、その仏のはたらきを受けて実現している、ということを説いているのです。」
       (中村元『密教経典・他』, pp.120,121.)

  • タントラの宗教の影響
    • 「煩悩を肯定する思想は、当時の俗信にたいする妥協とあいまって、卑猥な儀礼を導き入れる危険性があった。
       一部の密教徒は、男女の性的結合を絶対視するタントラの宗教 (Tantrism) の影響を受けて左道密教を成立させた。 タントラの宗教とは、性力派 ( シャークタ Sakta) ともよばれ、シヴァ教の一派であるが、男女のセックスの力を重視するのである。
       密教では仏との神秘的な合一状態を達成するのであるが、しばしば性的結合の譬喩をもってそれが説かれた。 また諸仏・諸菩薩には妃 (明妃(みょうひ)) がいると考えられた。
       行者と仏との合一を,男女の愛欲になぞらえて説くという特徴は、密教の諸経典についてみられるが,『理趣経』の場合にはとくに顕著である。」
       (中村元『密教経典・他』, p.279.)


  • サンスクリット原文和訳 抄
      中村元[著]『密教経典・他』, 第3章.
     私は、このように聞いた。
    あるとき世尊は、〔一切の如来のもちたもう、金剛の (ごとく不変不壊なる) 力の遍く殊めて勝れたる境地に到達したもうた。
     そして、一切の如来の智慧をあらわす宝冠によって頭を浄められ、三界の主となりたもうた。
     このように(世尊は)、一切の如来の、一切のものを知る最上の智慧を得、こころとからだの完全な自由を得たもうた。
     (世尊は、世の) 一切の如来の、一切のおこないが平等な愛によることをしめす種種さまざまな事業をなしたもう。
     (かくて世尊は、) 無尽無余、一切の衆生の界における、一切のひとの意願を、みなことごとく円満し、(過去と現在と未来との) 三世のすべての時において、ごじぶんの身体と口と意との三つの事業はいささかもとどこおるところがない。
    かくて,(世尊なるわれらが師は) 「あまねくすべてを照らしたもうもの」(Mahavairocana 大毘盧舎那如来) とよばれたもう。
     この如来は、この世界のはてにある他化自在天、すなわち「他を(すく)うこと自由なるところ」の王宮の中にいましたもう。
    ここはすべてのほとけが常にゆきかい、そのいみじきことを称讃したもう大いなる宝石の宮殿である。
    くさぐさの宝がいり(まじ)り、吊りおろされた鈴や鐸や、(きぬ)の幡が微風にゆれうごき、宝珠のついた(はなわ)や瓔珞や、半月形・満月形の瓔珞がいとも美しくかざられている。
     この美しい宮殿の中に、われらの師なる如来は、多くの菩薩と相倶においでになられた。〕
     すなわち、
      偉大な人である金剛手菩薩、
      偉大な人である観自在菩薩、
      偉大な人である虚空蔵菩薩、
      偉な人である金剛手菩薩、
      偉大な人であるマンジュシリー (Manjusri 文殊) 菩薩、
      偉大な人である纔発心転法輪菩薩、
      偉大な人である虚空庫菩薩、
      偉大な人である摧一切魔菩薩
    と、これらの人々を上首とする八千万の菩薩とともにおられたのである。

     初めにおいても善く、中においても善く、終わりにおいても善く、妙なる意義あり、語句も文字もみごとであり、雑りがなく、〔汚れがなく〕純白である教え、すなわち〈ありとあらゆるものは本来清浄であるという道理を完成する〔教え〕〉を説かれた。〔その教えは次の十七の境地である。〕
    (1)〔男女交合の〕恍惚たる快楽 (surata) が、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (2) 偏見 (drsti) があるのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩瞳の境地である。
    (3)〔男女の〕快楽 (rati) が、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (4) 愛執 (trsna) のあるのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (5) 装飾する (bhusana) のが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (6) 歓喜して恍惚たらしめる (ahladana) のが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (7)〔欲心をもって異性を〕眺める (aloka) のが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (8) 身体で快感を味わう (kaya-sukha) のが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (中間原文欠)
    (12) 心 (manas) のはたらくのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地であ守。
    〔(13) 色 (rupa) を経験するのが、じつは清浄であるという境地。これ、がすなわち菩薩の境地である。〕
    (14) 音声 (sabda) を経験するのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (15) 香 (gandha) を経験するのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (16) 味 (rasa) を経験するのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
    (17) 接触 (sparsa) を経験するのが、じつは清浄であるという境地。これがすなわち菩薩の境地である。
     それは、なぜであるか。
     一切のものが、その本性では清浄である (svadhava-visudhah) ように、一切のものは、その本性が空であること (svabhava-sunyata) によって、完全な智慧 (prajnaparamita) も清浄であることになるのである。

     そのときに世尊は、すべてのもの (一切法) は平等であるということに安住しておられる如来であったが,一切の法のうちでも最上のものである〈智慧の完成〉の道理を説いた。〔すなわち〕
    一切のものが平等 (samata) であることによって、〈智慧の完成〉が平等である。
    一切のものが目的を達成するものであることによって、〈智慧の完成〉が目的を達成する。
    一切のものがきまり (dharmata) であることによって、〈智慧の完成〉がきまりである。
    一切のものが動作 (karman) であることによって、〈智慧の完成〉が動作である
    ということを知るべきである。
    以上フリー (hri)。

     そのときに世尊ヴァイローチャナ如来は、また「一切衆生のささえ」(sarva-sattvadhisthana) という名の〈智慧の完成〉という道理を説かれた。すなわち、
    一切の生けるものは如来を母胎としている (tathagata-garbha)。
    何となれば、普賢大菩薩は一切のものの我 (sarvatma) であるからである。
    一切の生けるものどもは、金剛を母胎としている。
    何となれば、金剛を母胎としている者によって濯頂されたからである。
    一切の生けるものどもはダルマを母胎としている。
    何となれば、一切のことばをはたらせるからである。
    一切の生けるものどもは動作 (karman) を母胎としている。
    何となれば、一切の生けるものどもの道具としてのはたらきをなすことに努めるからである。


  • 参考Webサイト
  • 参考文献
    • 中村元[著]『密教経典・他』(現代語訳大乗仏典 6), 東京書籍, 2004.