Up 被曝による生体の危険性 : 要旨 作成: 2016-04-26
更新: 2016-04-26


    「被曝」に関わることを専門分野にしている研究者/学者は,「チェルノブイリ原発事故の人およびその他生物への影響」について論じるようには,「福島原発事故の人およびその他生物への影響」について論じることはない。
    ひとは,他人事については多弁になるが,自分のことになると寡黙になる。
    これは,「是非」の問題ではなく,物理法則のように,単純に「そうなるのみ」という問題である。

    研究者/学者は,職業柄,慎重な者になる。
    研究は,予想外れ,失敗の連続だからである。
    研究者/学者は,自分は信用ならないということを,身をもって知る者である。


    「福島原発事故の人およびその他生物への影響」の論は,あやしい論ならある。
    あやしい論をつくる者は,論をつくることにリスクが無い者,論に責任をもたないで済ませられる者である。
    あるいは,リスク・責任をものともしない者である。

    リスク・責任無しの者は,「若者・よそ者・バカ者」と相場が決まっている。
    リスク・責任をものともしない者は,「危ない者」である。

    メディアは,ジャーナリストの性癖として,「福島原発事故の人およびその他生物への影響」のあやしい論を求める。
    研究者/学者から,あやしい論を引きだそうとする。
    しかし,研究者/学者は慎重で,なかなかこれに乗ってこない。
    こうして,メディアに出てくるとしたらそれは「若者・よそ者・バカ者」か「危ない者」というふうになる。


    実際,「福島原発事故の人およびその他生物への影響」を論にすることは,至難である。
    そもそも方法が立たないのである。

    素人は,「影響」は客観的事実であり,調べれば簡単に白黒がつくと思う。
    「影響」が公に示されてこないのは,調べるべき者に調べる気がなく,調べてないからだと思う。
    しかし,そうではない。

    放射性物質にひどく汚染された地域Aに棲む虫Xに,被曝がもとの奇形が現れているか・いないかを調べるとしよう。
     註 : 「福島原発事故の人およびその他生物への影響」の調査は,「福島原発事故の人以外の生物への影響」の調査にとどめておくのが安全である。
    「福島原発事故の人への影響」を調べようとするのは,「被曝地出身者差別」の攻撃を受けるおそれがある。
    素人は,同じ種の個体同士は,体格好が同じだと思う。
    しかし,生物は,個体差がとんでもなく大きい。
    「個体差」と「正常・異常」の区別をつけるだけでも,悩ましい問題になる。
    そして,「奇形」と見えるものも,原発事故より前からある「奇形」現象であり得る。
    よって,Xを千匹採取し,そのうちの百匹が「奇形」であることを特定したとしても,「被曝がもとで奇形」を結論することには慎重にならねばならない,となる。
    問われてくるのは,《「正常・異常」の定位をそもそもどのようにしているか》である。
    翻って,「正常・異常」の定位もろくにせず調査に入る研究者/学者は,「被曝がもとで奇形」をやってしまうおそれがある。


    またここには,心理の機制として,「被曝がもとで異常」の想いをもつと,物事がそのように見えてしまうということがある。
    酸性雨がもとで異常」の想いをもつ者は,山枯れを見ると「酸性雨がもとで山枯れ」の結論に行ってしまうが,この類である。

    酸性雨がもとで山枯れ」を一度唱えた者は,これで引っ込みがつかなくなり,「酸性雨がもとで山枯れ」を押し通さねばならない者になる。
    イデオロギーの者になるわけである。


    《「福島原発事故の人およびその他生物への影響」の論は,慎重なものになる》は,《福島原発事故の人およびその他生物への影響は無い》ではない。
    理の当然として,影響は現前している。
    しかし,この影響が,論にできないのである。

    実際,影響は,確率事象である。
    そして,確率事象と思われているその内容も,不明である。
    即ち,体の内なる被曝現象は,人が目撃できるものではない。
    体の内なる異常化プロセスは,人が追跡できるものではない。
    確たることは,人は何も言えないのである。
    影響を論にできないのは,人の根本的無力による。
    この無力は,どうしようもないものである。


    「福島原発事故の人およびその他生物への影響」のあやしい論は,この無力につけ込むものである。
    よって,悪質である。

    「福島原発事故の人およびその他生物への影響」論は,無力とあやしい論の間を求めめねばならない。
    「中庸」がスタンスになるというわけである。