Up | 機能幻想「委員会」 | 作成: 2016-04-04 更新: 2016-04-04 |
一般に,「委員会」はつぎのいずれかである: ひとは,「委員会」を《智恵を出し合って問題を解決する・何かよいものをつくる》をするもののように思う──騙される。 これは,「委員会」の機能幻想である。 国策は,「委員会の報告書」で合理化される。 国策を立てるときは,これを合理化するための委員会を立ち上げる。 この委員会は,出来レースである。 そこで,委員の選択,とりわけ議長の選択が重要なものになる。 出来レースタイプの委員会の場合,委員の数は多めなのがよい。 「公平」感が出てくる。 そして,委員一人の意見を平均5分で一回りさせるだけで,会議の予定時間を消化できる。 ──これは,委員に発言の無力を知らせる効果もある。 事務方が議事進行次第を作成し,議長は自分の役割としてこれを実行する。 会議の成果は,開催の事実と議事録である。 委員会の意味は,開催回数と報告書である。 開催回数の意味は,「十分議論した」である。 報告書は,最初から方向性が決まっている。 実際,この方向性が実現されるように,委員の人選を行ったわけである。 報告書をしたためるのも,もちろん事務方である。 委員会のこの実態に対し「がっかり」の思いをもつのは,了見違いである。 委員会とは,もともとこういうものなのである。 これが委員会の機能である。 「雑多に集まって個々の意見を言い合う」は,「委員会」ではない。 「雑多に集まって個々の意見を言い合う」は,「智恵を出し合って何かよいものをつくる」にもならない。 「朝まで生テレビ」というTV番組があるが,「雑多に集まって個々の意見を言い合う」は,あれになる。 「報告書」という作業課題を持たない委員会は,何物でもない。 原発関係ではいろいろ「委員会」がつくられているが,それらは「出来レース」か,それとも「何物でもない」の類か,である。 「出来レース」の委員会に対し「がっかり」の思いをもつのが了見違いであるのと同様,「何物でもない」の類の委員会に対し「がっかり」の思いをもつのも,了見違いである。 ここは,「是非も無し」と見るところである。 |