Up | 教育的意義・必要性は? | 作成: 2007-12-09 更新: 2007-12-09 |
○「教職大学院」 実際のところ,「教職大学院」を立てる意味はない。 すなわち,「教職大学院」を現行の教員養成の大学院と別立てする意味はない。 別立てする意味のないものを立てるとき,それは最初から形骸化する。
「教職の専門性」の現前の問題は,教員の資質・能力の全体的レベルである。すなわち,「教員の資質・能力を全体的に底上げする」が課題である。 この課題に応ずる形は,「教職大学院」ではない。 そもそも「教職大学院」という形で対応しなければならない現実的な問題とは何か? そのようなのは存在しない。 実際,「教職大学院」の課題化は,必要から起こったのではない。 「何か<改革>をつくりなさい」から始まった。 「改革」の項目を探し,例のごとく真似できるものをアメリカの大学に求める。 その中に「教職大学院」がある。 こんなわけで,「教職大学院先ずありき」から始まった。そして,その「必要性」を考え出す作業に進んだ。 ○「教員研修」(「免許状更新講習」) 「免許状更新講習」が制度になったことで,教員養成系大学・学部の「教員研修」のテーマは「免許状更新講習」になる。 ──実際,「免許状更新講習」を抱えるようになった大学は,「教員研修は,この講習で目一杯」状態になる。 「免許状更新講習」は,免許更新の可・不可をアウトプットする講習である。 しかしこれを転ずると,「教員免許は,大学を主たる場とする30時間講習でその更新の可・不可を決定するようなもの」ということになってしまう。 本当はどうなのか?は,敢えて言うまでもない。──本当は,「教員としての資質・能力は,30時間講習で表す/表されるものではない」である。 理屈の立たない制度は,最初から形骸化する。 「教職大学院」も「免許状更新講習」も,行政主導の「改革」有識者会議の発案である。 一般に,「就職対策指導」は,いつも「改革」を背景にして言われてきた。 よって,「就職対策指導」を考えるときは,いつも「改革」の意味を考えることになる。 教育を「改革」で発想する者は,素人もそうだが,「システムが教育の問題を解決する」と考える。 ──教育現場に競争原理を導入する,教員養成課程の必修単位数を増やす,教職大学院をつくる,免許状更新講習を大学等が担当して行う,をやれば「改革」されると思う。 実際はどうか? このような実質的でないことを課題にもたされた者は,邪道 (卑しさ) に進む。
「改革」有識者会議は,おかしな「改革」を打ち出してくる。 それは,そのような「改革」の考え方をする者を集めているからである。
「スピード感をもって改革を進める」ことが大命題になっている。 「スピード感をもって改革を進める」役に就ける者は,「改革」を「スピード感をもって進められるもの」と考えるタイプの者である。 このタイプの者を「有識者」として集める。 ただし,「改革」有識者会議については,「仕方がない」でもよい (「仕方がない」とするしかない)。 困ってしまうのは,「正道を行く地道な取り組み」の考え方をもてるはずの──そして守らねばならないはずの──国立大学が,一斉に「改革」有識者会議に右に倣いしてしまうことだ。 残念ながら,今日の国立大学のインテリジェンスはこんなところまで落ちている。 ○「一般公開講座」 「法人化」前の国立大学の場合,公開講座は教員が自発的に行うものであった。 教育ないし研究上必要があるから,行われた。 「法人化」になると,公開講座開設が強いられるようになる。 「公開講座」が箱になる──これを埋める授業をつくることが迫られる。 (本末転倒!) 国立大学の「法人化」では,「公開講座をやっていない大学はダメな大学」の風潮 (集団心理) がつくられた。 教員も,最初からムードに流されてしまう。 本当なら,「必要だからやっているのか?それとも,本末転倒でやっているのか?」の問いを自ら立てること──この地点 (正気) に先ず戻ること──ができなければならない。 しかし,この問いがあるということさえ,思い浮かばなくなる。 例として,北海道教育大学の場合を見てみる。 |