デザイン/商品経済の気分・価値観を「ろくでもない」にするとき,「すばらしき」は?
「すばらしき」へのアプローチになるものを,ここでは「もののあはれ」とする:
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
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「もののあはれ」とは?
この問いを,つぎの問いに置き換える:
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認識の主体Sが存在Eに「もののあはれ」を感じるとき,
それはどのような構造になっているか?
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先ず,EはSの前に自分を現したのではない。
Sが偶然Eを認めた。
Eは己を主張しない。
つぎに,SはEに<深さ>を感じる──想い・考えを尽きさせない深さ。併せて,<まじめさ>を感じる。
この<深さ・まじめさ>の感慨が,<いとおしさ・なつかしさ>の感慨につながる。
商品デザインは,「もののあはれ」と正反対の位相にある。
それは,ひとの前に立ちふさがろうとし,ひとを自分に引き寄せようとする。
自分を主張し,ひとが自分の思い通りになるように仕組み,そしてまた,騙す。
学校教育の内容になる<知>は,「もののあはれ」が感慨の形になる:
- 地形を観る。
その構造・歴史を思念する。
- 生き物を観る。
それの意思・一生懸命や<命=個の一回性=種の一環>とかを思念する。
- 昔の衣食住の跡を観る。
意思・一生懸命や命や歴史を思念する。
- 数学を構造物として観る。
意思・一生懸命・知・歴史を思念する
- Wikipedia を観る。
<無私>になった数多くのそして多様な個から膨大・広大な知が編み出されている様を,思念する。
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