江戸時代の民間の教育と学問
○庶民の教育は民間任せ 江戸時代には義務教育制度はないが現代で考えられている以上に寺子屋などで教育を受けていて読み書き算盤ができる。 識字率については正確な記録がないが寺子屋の生徒数から嘉永年間(1848から1854年)の江戸府内では70から80%で江戸府内の農村部を除くと90%という推測結果もあり,かなりの高水準である。 幕末の全国では男性40から51%,女性は15から21%と言われている。 当時の日本の識字率は世界一と言われている。 武家階級はほぼ100%と言われている。 幕府が民間の教育施設を廃止したのは幕末の松下村塾の吉田松陰が国法を犯したとして処刑され塾が閉鎖したぐらいだろう。 なお,寛政の改革で出された異学の禁で朱子学以外教えてはならないように誤解しがちだが幕府公認の学問は朱子学のみとするだけである。 ほとんどの藩は強制はされていないが幕府の方針に反し朱子学以外を教えると幕府の不信感を買うと怖れて自主的に見習ったが庶民の教育は規制対象には入らなかった。 ◆民間の教育機関の代表 寺子屋(手習いとも言う) 江戸では学校に「屋」と付けるのは嫌い「手習い」と言っていた。 寺子屋の師匠は社会的地位が高く商家のように「屋」がつくことを嫌ったとも考えられる。 ここでは一般的に使われている寺子屋と記述していく。 ○寺子屋の数 享保六年(1721年)には江戸市中に寺子屋の師匠は約800人,幕末には全国で一万五千から二万ほどの寺子屋があったと推計され寺子屋のない町や村はないとまで言われた。 現代のように教員免許制度はなく教える場所も自由で誰でも自由に開くことができた。 師匠の裁量が大きな部分を占め幕府と藩は援助も介入もしなかった。 ○入学時期と卒業時期 入門する年齢と退学する時期は個人の自由だが早い場合は五歳から普通は七か八歳で入学し男子が十二,三歳,女子は十三,四歳で卒業する。 初午(二月最初の牛の日)を吉日として入学するのが通例。 卒業後は職人の親方に弟子入りか商家へ奉公するなどそれぞれの道を歩んだ。 女子の場合は教育の仕上げとして武家か大店に女中奉公し礼儀作法など厳しく躾けてもらった。 ○授業時間と休日 個人経営のため師匠の自由裁量で授業時間は決められるがだいたい午前八時から午後二時まで。 昼食は十二時。 給食はなく家に帰って食べるか持参した弁当を食べた。 現代の学校のように全ての授業時間にいる必要はなく通ってくる生徒が来られる時間帯だけ来て家の用事か御稽古事に通う時間になると帰った。 休日は毎月の1,15,25日の定休日と五節句,年末年始(12月17日から1月16日)と臨時の休日など年間五十日あるが師匠の裁量次第で自由に決められた。 ○入門料と授業料 定額制ではなく社会的地位や経済状況に応じて支払える額を支払った。 師匠は「学は金銭で売るもの」と考えず「師匠という地位を誇り」と思い金銭についてほとんど言わなかった。 入門料は師匠にふさわしい額を近所から話しを聞いて入門者の親が判断した。 二百文から三百文,余裕があれば二朱,大店なら一分を包んだそうだ。 先輩に煎餅を配る習慣があり一枚五文ぐらいを人数分用意した。 道具類は机は貸してもらえたが筆や半紙など他の道具は生徒が用意した。 教科書は寺子屋の備品を使う。 六月の畳替えや冬の炭代を負担し盆暮れや五節句には百文から千文程度(一ヶ月辺り二十文から三百文。)を親の経済的地位に応じて礼金として持参した。 ○教育内容と方法 現代の学習指導要領に相当するものはなく教育内容は師匠の裁量と父兄の要望に任されていた。 まず最初にいろは四十八文字の読み書きと文字の意味や数字を教えた。 短文の読書きを教え「名頭(人の姓の最初を漢字で書く)」,「名字尽くし」や手紙文と商用の送り状,請取状など実用的な文章ものを学んだ。 地理に関する教育は江戸の寺子屋なら江戸の町名を読書きしながら江戸の地理を学ぶ「江戸方角尽」や江戸の生活や行事について習う「江戸往来」,「東海道往来」,「国尽くし(アメリカなどの国ではなく山城,武蔵など日本の地名の国名)」と言った地理を学んだ。 その後,庭訓往来(ていきんおうらい) や漢文の基礎である千字文 (せんじもん) などを教えた。 最後に百姓なら「百姓往来」,商人なら「商人往来」と相場について,職人なら「番匠往来」など子供の親の職業に合わせた教科書を使い職業に必要な用語を覚えた。 また,礼儀作法を身につけさせるのも寺子屋に期待されていた事柄である。 通ってくる子供の年齢や職業がバラバラで一律に教えるのではなく個別指導をしていた。 庶民が武士の師匠に習うことはできた。 算盤の代わりに唐詩選や千字文など漢文を教えるが,商家や職人の子供には漢文の知識は必要とされていないためわざわざ通うことは少なかっただろう。 往来物は七千種類ありそのうち女性用は千種類あり寺子屋の備品で使いまわしされていた。 ○幕府による道徳教育 幕府は享保五年(1720年)に八代将軍吉宗は南町奉行大岡越前を通じて指導要領を高札にして下付し,道徳教育の実施を命じた。 二年後には「六論衍義(りくゆえんぎ)大意」という中国の書物を要約した本を刊行し江戸の寺子屋の師匠に配布した。 内容は「博打など犯罪を犯さないように」や「親孝行をしなさい」「年長者を敬いなさい」など現代の学校の朝礼などで校長先生か担任の先生が生徒で訓示するぐらいの常識の範囲が十条ある。 これ以降,寺子屋で道徳教育を行うようになる。 幕府は庶民が掟を熟知することで犯罪が減ることを期待したが,寺子屋に経済的援助は行われなかった。 ○師匠の収入 師匠の収入は嘉永・安政年間(1848から1859年)には生徒百人いれば生活が楽で二百人なら二十石取りの武士並(約十四両に相当か)と言われている。 師匠は学は金銭で売るものと考えず師匠という地位を誇りに思うことから金銭についてはほとんど言わなかった。 尊敬はされるが暮らし向きは楽ではなかっただろう。 師匠は町民や商家の隠居が主だが御家人や僧,浪人もいた。 地方では郷士や名主の他に村役人が師匠になる。 副業でしているものもいただろう。 また,教え子や昔の教え子が何かにつけて師匠に贈物をするなど結びつきは強い。 ○試験 自由な気風の寺子屋にも試験があったようだ。 たまには試験をして上達具合を確かめなければ緊張感が保てないのだろう。 毎月数回習った字を清書と読み方の試験をした。 四月と八月に行われる席書という試験では,師弟ともに礼装という大掛かりのものだった。 また,演習や大演習という素読の試験もある。 試験の成績優秀者には師匠から筆や半紙など褒美が与えられた。 ○高等科 希望者のみ高度な内容を教えた。 男子には古状揃 (こじょうそろえ) や実語教,童子教,三家教,四書五経など漢文を素読し,女子には女今川,百人一首,女大学,女庭訓往来,源氏物語などを教えた。 学問所と違い師匠も内容がわからないためか解説はしなかったようだ。 江戸時代では高い教養を持っていても学者を目指す者以外はさほど得にはならない。 よほど勉強熱心な者か経済的に余裕のある者に限られていただろう。 ○幕府の昌平坂学問所 幕府が設立した学問所だが,天明七年(1787)年9月から毎日開かれていた仰高門日講だけは袴を着ける必要があったが,身分を問わず無料で開放されていた。 講義は九時から十二時まで行われていた。 一年間通い続けて皆勤賞を取れば講師からお褒めの言葉をかけられた。 学問所で教える学問は官学である朱子学のみである。 庶民にとっては朱子学は直接暮らしに役立つものではないため,庶民が聞きに行くことは稀であった。 |