第12回:学費でみる江戸時代の教育事情〜義務教育制度がなくても就学率は高かった!〜 文部科学省の平成16年度・子どもの学習費調査によれば、子どもの教育にかかる費用は、幼稚園から高等学校まですべて公立に通わせた場合、約531万3千円、小学校だけ公立で他が私立の場合は約982万円もかかるとされている。では、公教育制度が確立していなかった江戸時代、子どもにかかる教育費はどのくらいだったのだろう。今回は、教育費を中心に江戸時代の教育について見ていこう。 ※文中では特に断りのない限り、仮に現代の金額に換算する場合、わかりやすく1文=約30円、1両=4000文=約12万円としている。ただし、実際には江戸初期と後期では物価や換算率などに違いがある。 武士の子も庶民の子も、読み・書き・そろばんに習い事!まずは、江戸時代の教育システムから見ていこう。江戸時代は、現代のような義務教育制度はなかったので、武士であれ庶民であれ、子どもに教育を受けさせるかどうかは自由だった。といっても、当時は庶民の家庭でも、子どもに、読み・書き・算盤(そろばん)程度の基礎的な教育を受けさせる傾向にあった。また、武士は、学問を身につけることは出世のために不可欠であったので、子どもにしっかりと教育を受けさせる家庭が多かった。 次の表は、こうした子どもたちの教育を行っていた教育機関の一覧である。初等教育から高等教育まで、次のような教育機関のシステムがあった。
現代のイメージでは、寺子屋(※1)と郷校は主に庶民向けの小学校、藩校は武士向けの小〜中・高等学校に近いものと考えればわかりやすいだろう。また私塾(※2)と昌平黌(※3)が今の大学に近い専門の教育機関にあたる。 ただ、こうした“学校”に通うのは義務ではないので、武士の家では、親や親が選んだ師匠が、家庭で直接子どもに個人指導で教えることもあった。また、学問とは別に剣術や水泳、画学などを習わせる家庭もあった。 庶民の家庭では、主に寺子屋や郷校を利用して子どもに教育を受けさせていた。特に江戸や大阪などの都市では、学問を身につけていれば奉公に有利ということもあり、男女問わず寺子屋に子どもを通わせる傾向にあった。商人の男の子では、この寺子屋の入門期間を終了して10代で奉公に出ることが多かった。また女の子は、武家への奉公や良縁につながることから、寺子屋で学問と同時に裁縫を習ったり、三味線、琴、踊りなどのお稽古事に通うこともあった。たくさんの習い事をしている女の子は、毎日早朝から夕方までかなり忙しかったというから、夜遅くまで塾通いをする今どきの子ども並みに疲れていたのかもしれない ※1)寺子屋…主に上方ではこう呼ばれたが、江戸では、「屋」が屋号のようで、教育の場の名称にふさわしくないとされ、“手習塾”“手跡指南”などと呼ばれた。 個人経営だった寺子屋の授業料は?ところで、この当時の教育機関の授業料はどのくらいだったのだろう。当時は教育の制度が統一されていたわけではないので、その施設によって学費の制度も違っていた。 まず寺子屋の場合は、完全な個人経営であったため授業料が有料だった。寺子屋の経営者、つまり師匠は武士(浪人)や僧侶、神官、医者などさまざまだったが、授業料の金額はその師匠によって違いがあった。次の表は、江戸の寺子屋の学費の相場である。 江戸の寺子屋の学費の例
この表を見てわかるとおり、寺子屋の場合、家庭の格や資力によって授業料の額に差を付ける場合があった。つまり、払える余裕がある家庭は多く払うし、余裕のない家庭は少なくて構わないということ。また寺子屋の場合、授業料といっても地域によって払い方も異なり、江戸では現金払いが主流だったが、地方では現物払い(酒、赤飯、そば、うどん、餅、するめ、季節の野菜や果物など)が多かった。無償ではないといっても、教育の経済的な負担はあまり重くなかったといえるだろう。 寺子屋の場合、授業料を滞納してしまうことがあっても、寺子屋の師匠は強く請求したり、そのことで破門にしたりということはなかったようだ。それは、彼らが金儲けのためではなく、師として未来ある子どもを教え導くという信念のもとに寺子屋を経営していたからだったと思われる。 藩校は、経営母体が藩であることから、授業料が無料か、あったとしても、寺子屋のように家格によって授業料の額に差を付けている場合が多かった。また、郷校も無料であることが多かった。郷校では、経営が有力な人物の寄付に支えられているケースもあった。 江戸時代の“大学” 私塾の学費を比べてみると江戸時代で今の大学にあたるものが私塾や昌平黌。これらは儒学や蘭学など、専門的な教育を行う機関である。 昌平黌は、入学金が若干必要であったが、授業料は不要で、通学か寄宿舎に入るか選択もできた。寄宿舎は定員が50名ほどだったが、食費や暖房費、夜勉強する際の灯油代なども幕府が負担したので、お金のことを気にすることなく学問にいそしむことができた。 私塾の学費は、通常、入学金にあたる束脩(そくしゅう)と、盆暮れ2回の謝儀で納めるシステムであったが、額は私塾次第でかなり違っていた。 一般的には、広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)のように、入学金が100疋(約3万円・※4)、年2回の授業料が各100疋、などと定められていることが多かった。江戸を代表する蘭学塾、伊東玄朴(げんぼく)の象先堂(しょうせんどう)は、束脩が1両2分2朱(約19万5,000円)くらいだったという記録がある。これは私塾の授業料としてはかなり高い部類になる。一方で、坪井信道の日習堂のように、束脩大豆1升、謝儀も各大豆1升、と寸志程度の学費しかかからない私塾もあった。 ただ、学費は安いのだが、多くの私塾生は生活費を気にしなければならなかった。この当時、大阪の緒方洪庵の適塾に入学した福沢諭吉の生活費は、1ヶ月1分2朱(4万5千円)であったという記録がある。武家の子弟の多くは、決して実家が裕福ではなかったので、こうした生活費については親からの仕送りは受けず、多くはアルバイトをして稼いでいたという。 ちなみに、文部科学省の平成16年度・学生生活調査によれば、子どもを4年制大学に行かせた場合、1年間の学生生活にかかる費用が、自宅通学で、国立大学約105万円、私立大学約174万円、下宿では、国立大学約181万円、私立大学約249万円とされている。学校の規模・施設や今の生活水準を考えれば、単純比較することはできないが、それでも今の大学生活にかかる費用と比べれば、当時の費用は格段に少ないことがわかるだろう。 ※4)疋(ひき)…贈答に用いられる貨幣の単位。1両=400疋、100疋=金1分にあたる。
高い就学率を実現したのは、江戸時代の人々の心意気ところで、江戸時代の庶民の寺子屋の就学率を見ると、嘉永年間(1848〜1854年)頃の江戸で、70〜86%くらいだったという。これは当時のヨーロッパ諸国と比べてもはるかに高い数字。また、国民の識字率もかなり高かったようだ。 こうした高い就学率、教育熱の背景には、日本人の勤勉な国民性があったのだろうが、学費の負担の軽さもあったといえるだろう。家庭の資力によって差を付けた寺子屋の授業料、有力者による郷校への寄付など、江戸時代には、経済的に豊かな人が教育を支えるシステムがあった。そのために、家庭の資力に関係なく希望すれば誰でも就学し、平等に教育を受けることができたのである。当時のお金持ちには、お金があるから自分の子どもにだけ良い教育を受けさせる、というより、子どもは社会の財産だから、自分のお金で皆に良い教育を受けさせよう、という発想があったのだろう。そのことで、統一された公教育制度がなくとも、国全体の教育システムがスムーズに機能したのではないだろうか。 学力低下、いじめ、未履修など、多くの教育問題が噴出している昨今だが、各家庭の経済格差が教育の格差を生み、そのことがさらに新たな問題を生み出しているともいわれる。皆で子どもの教育を支えるという寺子屋時代の発想、そんな江戸時代の人々の心意気を、私たちは今、あらためて思い起こしてみるときではないかと思う。 <参考文献>
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