http://archive.mag2.com/0000016207/20080307220306000.html?start=20


          江戸時代の寺子屋の暗誦教育


                   横浜   荒木  茂
                 http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/

  本稿を書くについては、下記の資料を使用した。

【A】石川松太郎ほか『図録・日本教育史の源流』第一法規出版、昭和59
【B】石川松太郎『藩校と寺子屋』教育社、1978年
【C】市川寛明・石山秀明『図説・江戸の学び』河出書房新社、2006年
【D】佐藤健一『江戸の寺子屋入門』研成社、1996年
【E】『神奈川県教育史・通史編上巻』神奈川県教育委員会発行、昭53年
【F】久保田信之『江戸時代の人づくり』日本教文社、昭63年
【G】市川寛明・石山秀明『図説・江戸の学び』河出書房新社、2006年
【H】今野信雄『江戸子育て事情』築地書館、1988年
【i】谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、昭和51年 

上記の資料名の前に付いている記号は、以下に書いてある本稿の文章の一つ一つに付いている記号と対応しており、その文章個所は主として上記のその記号が付いている資料を引用したり要約したり参考にしたりして書いていることを示している。


                寺子屋の概略

    寺子屋とは

    寺子屋とは、主として一般庶民の子弟を対象として、「読」「書」「算盤」といった、初歩的実用的な知識を授ける私的教育機関である。その起源は、中世、室町時代の後期にまでさかのぼることができる。寺子屋の起源をみてみよう。

    すでに鎌倉初期から、僧侶となる少年を対象とする教育と、在家の子ども(武士や庶民)をあずかって、初歩的な文字の読み書きを教える教育と、二つの側面をそなえていた。室町中期となると、庶民の子ども達に文字の手ほどきを与える風習が一般化してきたが、室町後期になると、武士や庶民の世俗教育に必要な教育内容をいろいろ取り入れるようになった。

    この中世寺院教育の世俗教育が、近世の寺子屋の先駆と目されるのだが、武士の子弟が中心であったこの寺院の教育が、庶民を対象に発生した寺子屋として普及・発展していくためには、近世社会の社会特有な経済的、文化的諸条件の発達があった。

    小商品生産の台頭・発展によって、庶民大衆の日々の生活や生産活動に「文字」の果たす役割が重要となってきた。文字学習の要望が高まり、その要望にうながされて、庶民大衆自身が全国各地にひろく設立したのが寺子屋であった。

    「寺子屋」は「寺子」と「屋」との合成語であって、「屋」は寺子が通う家をあらわし、本屋、米屋といった家を意味し、手習いを経営する家をあらわした。【A】


    寺子屋の普及度

    寺子屋は民間の塾であるから、寺子屋に関する記録は幕府や藩の公文書にはない。寺子屋の師匠の子孫に伝わる文書からしか見つけることしかできない。

    幸いにも、明治十六年に文部省が全国の都道府県に依頼して教育史の調査をしたことがある。それを編集した『日本教育史資料』(明治23〜25刊)がある。この資料は二十三巻からなる膨大なものであり、寺子屋を知るには最良の資料となっている。【D】

    開業数の統計をみると、寺子屋は19世紀に入る頃から急激に増加し続けている。とくに安政から慶應にかけての14年間には、年間300を越える寺子屋が開業している。『日本教育史資料』によると開業の年代が不明のものも含めて一万六五六〇軒あったという。しかし、実際には江戸だけでも大きい寺子屋が4〜500、小さいものをまぜれば1000から1300ぐらい存在していたといわれている。【D】【G】


    寺子屋への入学年齢

    寺子屋はまったく自然発生的に設立されて、発展していったものである。そのため、決まった入学年齢があるわけでもなく、入学日、就学年齢が決まっていたものでもない。卒業証書などもなかった。入学年齢は、各寺子屋によってもまちまちだし、その家庭の事情によってもまちまちであった。しかし多くは六〜八歳が入学年齢であった。学習期間も特別の規定があるわけでもなく、二〜三年間が普通であったようである。【F】


    寺子屋の師匠

    師匠の職業は、地域によって異なる。

    東京府が小学校設立のために寺子屋師匠に提出させた調書には726名分の旧身分が書かれている。多いのは平民(町人)で、雑業、農民、商人などの江戸の町人である。次に多いのが士族である。女性の師匠も86名確認できる。

    千葉県の袖ヶ浦地域で確認できる手習い師匠の人数は35名、内訳は、僧職10名、農民4名、神官4名、医師3名、不明14名である。このことから江戸では町人が多く、農村では僧職・神官・農民であったことが分かる。【C】


    寺子屋の学習内容

    学習内容は、時代により地域により家業によって多種多様であった。とはいえ、圧倒的多数は、なんといっても「読み・書き・算盤」であった。なかでも手習いにはどの寺子屋も時間をかけ、手習いは中核であった。一人一人が個別に指導を受け、練習をしては師匠の前に進み出て清書をし注意を受け、また自分の机に向かうといった形式であったようだ。

    師匠は頃合を見て一人の寺子を呼び出し、目の前で書かせ、朱筆を加えたり、運筆の順序、言葉の意味内容を教授したりした。師匠は一人一人の寺子の年齢や進度、学力、性格、興味、家の職業などに応じて、手本の内容を変えるなど細かな配慮をして指導した。手習い指導のとき師匠は「倒書」といって、さかさまに文字を書いてやらなければならない。「倒書」の技術に熟達しなければ寺子屋の師匠とはいえなかった。

    寺子屋における手習いは、単に文字を上手に書くことだけが目的ではなかった。手習いで文字を学び、手本を読むことで様々な知識を習得した。手本の内容は、日常の躾、礼儀作法、教訓に至るまであった。この意味で、手習いは、近世庶民の子ども達の人格形成の根幹を支えていた修身教育にもなっていた。【F】


    寺子屋の教科書

    寺子屋の教科書は、総称して「往来物」といわれている。往来とは「往復一対の手紙・書状」のことである。日常生活の中に使われている手紙・書状を習得していなければ、何人も日常生活の支障をきたすと考えられていた。身分、職業、性別、季節によって、そこで使われる手紙・書状は形式・種類が実に多様であった。手習いの教材文は日記調、手紙調、問答調で書かれたものも多くあった。季節の挨拶、年中行事、近所付き合いの仕方なども記されたものもあった。女子は、読み、書き、算盤を主としながらも、茶、生花、裁縫、絵なども教えられた。【F】

    往来物には日常生活に必要な実践的な知識や道徳律が書かれてあった。読み書き能力と道徳性の涵養が密接に結びついていたことが寺子屋の特質である。子ども達は膨大にある往来物の中から師匠が一人一人に適当と選んだものを与えて学習させた。往来物のほかに師匠が特別に書いて与えた「お手本」もあった。「草紙」と呼ばれた練習帳を真っ黒にして手習いに励んだ。【G】


    寺子屋の学習形態

    寺子屋は何人いても一斉授業ではなく、また年齢の異なる者同士が一つの部屋で一緒に勉強していた個別カリキュラムによる個別指導が行われていた。個別指導の対極にある一斉指導の少なさに特徴がある。師匠は、みずからの教職経験にもとづき、寺子各人の興味・能力の程度を考えながらさまざまな指導内容の工夫を試みつつ指導した。
    もちろん一斉指導が全くなかったわけではない。しかし、これは多くの場合、九九の唱和など、音読による発声練習などの場合だけで、通常の手習い、素読(読み方)練習は個人教授であった。【C】

    前述したように一人一人の学習内容は、地域により時代により身分、階層により、性別により、さらには寺子屋の性格、師匠の力量などにより千差万別であった。

    共通したところをあげれば、
      「いろは」→「数字」→「「名頭(姓字の一覧)」→「村の名前一覧・国の名前一覧」→「諸証文」→「用文章」→「諸往来」→「法規類」→「漢籍」
    といった学習内容へ、矢印のような順序で学習が進むのが一般的であった。寺子屋では、四書・五経といった漢籍まで進むのは極わずかであった。【F】

    手習いが寺子屋の学習時間の大半を占めていたのは全国共通の現象である。文字は仮名と草書と行書の三種類が指導された。楷書は日常使用することがなかったので手習いの対象から外されていた。楷書は知らなくても生活に支障がなかったのである。公文書や触書はすべて草書で、出版物は行書が多く使われていた。【H】


    寺子屋の試験

    寺子屋の教育にも試験に似たものはあった。清書(きよがき)、浚(さらい)、席書(せきがき)の三つである。

    これらはいずれも手習いの上達をみるもので、今日の試験のような客観的な評価を下すものではなく、褒賞品を与えたりして寺子たちの学習への意欲を高めるためのものとしてあった。

    清書は、師匠から与えられた手本を浄書して提出するもの。師匠が浄書に小さく評言を書き、成績を教場に掲示することもあった。

    浚は、おさらいで、手本を見せずに暗誦、暗書させること。大浚と小浚とがあり、大浚とは月に一回行われる暗誦、暗書のこと。小浚とは年に一回行われる暗誦、暗書のこと。良くできたものには、筆墨や清書草紙、幼い子には菓子が与えられた。

    席書は公衆の面前で、晴れ着を着た寺子に文字を書かせるもの。見物人も多く、それを目当てに露天商も出るほどの賑わいがあったところもあったという。師匠にとっては、自らの寺子屋のPRという側面もあったようだ。【C】


    寺子屋の「終りの会」風景

    師匠一人の手ではとても間に合わない場合には、兄弟子が助教となって弟弟子の指導に当たることも普通にみられた。寺子屋の学習内容の中核は習字であったが、その日の日課の最後の「終りの会」では、ほとんどの寺子屋では先生の連れ読みによる一斉音読(斉読)が行われていたようである。子ども達は早く家に帰りたいものだから、師匠(兄弟子)の音頭のもとに声を張り上げて斉読・唱和した子ども達の様子が下記の資料から想像できる。

      午前モシクハ午後、退散時刻二サキダツ凡ソ一時間、生徒ヲ一カ所ニ蝟集セシメ、モシクハ机ヲトリカタヅケシメ、シカル後、生徒ハ円形モシクハ方形ニ座シ、師匠ナイシ当番ナル生徒ハコモゴモ、コレガ音頭ヲナシ、一句ヲ読メバ、衆生徒コレニ和シテ誦読シ、スナワチ斉読ニテ一編ヲ誦読シオワレバ、タダチニ解散セシムルナリ。
      (「維新前東京市私立小学校教育法及維新法取調書」より)

    といった学習状況がみられた。こうして子供達は寺子屋の規律から開放されて、友達と別れて、我が家へと元気に向かった風景が目に見えてくる。

    上記の資料例は江戸における一寺子屋の例にすぎないけれど、そのほかの地域でも大同小異ではなかったかと思われる。【B】


    野村吉三郎の寺子屋の思い出

    野村吉三郎といえば、第二次大戦前に外務大臣をつとめ、特命全権大使として渡米して日米交渉に当たった元海軍大将である。誕生は明治十年、小学校入学は同年十七年だが、母のすすめで、漢学と数学を習得するために別に私塾にもかよっていたという。そのときの記憶を回想して、野村吉三郎は下記のように書いている。

      「……同町内に在った河合という老人の教える漢学塾では、同年輩の頑童達が、意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやっていた。何しろ悪戯盛りの子供達だから、一組が老先生の前に畏まって授業を受けていると、ほかの連中は先生の背後で木刀や竹刀を振りまわし、先生の頭や肩先へ切りつける真似をしたり、赤んべえをしているが、耳の遠い老師はそんなことはどこふく風で、前に居並ぶ腕白連中が大声張り上げて朗読する素読を、竹の鞭を構えた泰然とした格好で熱心に聞き入って居られた。耳が遠いので果たして聞こえているかどうかは保証の限りではないが、今から想えば懐かしくもあり、可笑しくもある寺子屋風景であった。併し、私にとってはこうした幼年時代の私塾通いが、後年に及んで大きなプラスとなった。その頃の月謝は確か二十銭ぐらいと覚えているが、この二十銭は母としては随分苦心をした金であったようだ」【H】

    ここで、野村が「意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやっていた」と書いていることに注目したい。「素読「とは、そういうものだったのだ。

    野村の通った私塾とは、通った時代は明治十年代だが、まだ江戸時代の寺子屋の名残を十分に残している漢学を主とした寺子屋のことである。この文章は、江戸時代の寺子屋の風景を描写している文章と受け取ってよい。寺子屋における子ども達のやんちゃな、おおらかな風景描写がおもしろい。

    現在、寺子屋で手習いをしている絵が描かれている書籍や襖絵が数々残っている。それらには、同じ部屋に男子と女子とに分かれて学習している絵、学習態度がまじめに手習いをしている一部の子、そのかたわらで落書きをしている子、おもちゃで遊んでいる子、子猫や小犬を可愛がってる子、罰を受けて正座させられている子など、実におおらかな寺子屋風景の絵が多くある。


                  結び

    寺子屋には、藩校にみられた「学科」「教科」に当たるものがない。それらしいものをあげれば「習字」と「読書」である。習字が教育課程の中核であったことは全国的にほぼ共通する現象であった。手習いの手本は往来物と呼ばれ、こうした往来物(習字教科書)が当時は数多く作られ、その数は7000種もあったという。

    「手習い」と言っても字を上手に書くことだけでなく、「手習い」の文字を読むこと、書かれている単語、文、文章の意味内容を理解すること、それを通して実学と修身とを習得することにもねらいがあった。

    寺子達ははじめに「いろは」を習う。次に「数字」、次に漢字へと進む。漢字は単字から成語、熟語へと入っていき、短句、短文、文章へと進んだ。その内容は教訓、地理、歴史、手紙、産業、理数などにわたっていた。江戸時代は文書社会であったから、書簡、諸法度、御触書、御高札、五人組帳前書、種々の上申書などで使われた単語、成句、文、文章も多く含まれていた。

    こうして寺子達は習字を通しながら、読書や作文や地理や算術や法律や社会規範や修身などを学んでいった。手本(模範文)の手習いを重ねることで、同時にそれら単語、文、文章を記憶・暗誦することにもなったし、その暗誦が文章を書く時の作文の応用能力となって身についていった。つまり、寺子屋の知識習得は、書いて覚えるという教育方法であった。

    寺子屋では「浚」という暗誦、暗書の試験があったことは前述した。すべての寺子屋ではなかったにしろ、暗誦という指導の流れは底流としてあったと考えられる。それは、江戸時代の教育書である貝原益軒『和俗童子訓』にも「四書を、毎日百字づつ百へん熟誦して、そらによみ、そらにかくべし」と書いてあることからもうかがえる。「熟誦、そらに読み、そらに書く」とあり、ここにも「熟誦という繰り返しの暗誦」の強調と「書く。書いて覚える」ことが強調されていることに注目したい。

    寺子屋の「終りの会」では、今でいう「群読」の先駆的指導が行われていておもしろい。引用資料に「誦読」とあるので、声に出して、一斉に声を張り上げ、多分・節をつけて吟じて、何回も繰り返しているうちそらで言えるようになって、師匠(兄弟子)のリードが必要なくなって、やがて暗誦してしまう、という指導だったと思う。

    「退散前の、およそ一時間」というのだから、「一時間」の一斉音読とは、子供達はかなりの精力を使ったろうことが想像できる。わたしは、「一時間」とは「60分」ということではなく、放課直前の1モジュールのちょっとした復習の自由時間・終りの会と考えたい。一時間も声を張り上げ続けたら、へとへとになってしまう。

    野村吉三郎の通った私塾とは、通った時代は明治十年代の私塾のことだが、まだ江戸時代の寺子屋の名残を十分に残している漢籍を主とした寺子屋のことだと想像する。何故そう言えるかというと、「幕末維新期にいたって、庶民の求める知識、教養のはばが広がり、寺子屋が私塾に著しく接近し、私塾も習字を教育課程に組み込むようになり、私塾と寺子屋とのあいだには、はっきりした一線をひくことができなくなった。これがやがて明治学制の小学校を中核とする国民教育を形成する素地となっっていった。」【E】という事実からである。
    野村吉三郎の文章には、私塾・寺子屋の素読授業の風景がいきいきと描写されている。「意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやった」「大声を張り上げて朗読する素読」という文章がある。幕末期になると、素読がごく普通の授業形態であり、「素読とは、意味も分からぬのに大声を張り上げてそらよみし、暗記する」というものだった、ということが分かる。

    なお、野村吉三郎と同時代に生きた湯川秀樹(物理学者、ノーベル賞受賞、明治40年生まれ)も祖父から漢籍を習っている。

    終りに、文豪・谷崎潤一郎は、自分の体験から寺子屋について次のように書いている。谷崎潤一郎は、1886年(明治19年)東京市日本橋区蠣殻町に生まれた。野村吉三郎とは生まれが9年後である。

      思い出すますのは、昔は寺子屋で漢文の読み方を教えることを、「素読を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでただ音読することであります。私の少年の頃にはまだ寺子屋式の塾があって、小学校へ通う傍そこへ漢文を習いに行きましたが、先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の上を指差しながら、朗々と読んで聞かせます。生徒はそれを熱心に聴いていて、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読めれば次へ進む。そういう風にして外史や論語を教わったのでありまして、意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。

    谷崎さんも、「素読とは、講義をしないで、ただ音読することであります」と書いている。【i】