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授業設計ができない原因:論理的構成力の不足
作成: 2005-11-22
更新: 2005-11-22
論理的に構成する力が不足していれば,もとより授業設計はできません。
ところが,自分の関しての論理的構成力不足は,自覚しにくいものです。
実際,論理的構成力のある・なしは相対的なことがらですから,論理的構成力不足は,自分の知らなかった論理的構成,あるいは自分より優れた論理的構成に出会ってはじめて,意識されてくるところのものです。
論理的構成力が不足していれば,論理の誤り,論理的構成の拙さをひとから指摘されても,なにがおかしいのか,どうしておかしいのかが,わかりません。
したがって,授業設計についてのコミュニケーションが成立するためには,話し手・聞き手の
両方が
1. 一定の論理的構成力をそなえ,
2.一定の論理的ベースを共有している
ことが,条件になります。
特に,論理的構成力不足が根底的/原初的に過ぎる場合は,「構成の拙さをことばでは教えられない」に至ります。
弟子:「どこがだめなんでしょう?」
師匠:「全部だめだねえ」
弟子:「どうしてだめなんでしょう?」
師匠:「とにかくだめなんだ」
弟子:「どのように直していけばいいんでしょう?」
師匠:「自分でいろいろやって考えるしかないねえ (教えたくても教えられないよ)」
論理的構成力をつけるには,勉強・訓練・鍛錬・修行を重ねることしかありません。
近道はありません。
教科の主題の論理をしっかり理解することは,論理的構成力をつけることの一環であり,基本中の基本です。
そして,下手でも,自分で,そして繰り返し行います。(自分で実際にのめり込んで行うことが必要です。適当に済ませるようなやり方では,いつになっても,身につきません。)
併せて,より経験を積んだ人の指導やフィードバックから学びます。
自分でやってみることにより,参考書の中の文章も「ああ,たしかにそうだよな!」というふうに読めるようになります。
要は,経験です。まじめに取り組めるかどうかで,できる・できないが決まってきます。(アタマは関係ありません──多分,たいていのことは。)
からだを使うのを惜しまないことが,肝心。