Up 例:算数・数学の授業 作成: 2008-03-07
更新: 2008-03-07


    <子どものまんま>で自足している者が「モンスター」。
    この意味で,算数・数学の授業において教員はモンスターである。

    算数・数学は,モンスターがこれを行うことにより,ひどいものになる。 しかし,モンスターは「自足する者」であるから,授業がひどいことになっているという意識はない。


    わかりやすく,小学算数で話をしよう。
    算数の問題を解ける者は,算数をわかっていると思い,教員の場合だとさらに,算数を生徒に教えられると思う。
    その者は,「算数を勉強しなければならない」とは思わない。

    算数を授業する教員のアタマの中の算数は,小学生の算数と何も変わっていない。
    教員は,<小学生のアタマのまんま>で授業をしている。
    小学生が小学生に授業をしているということである。


    教員のアタマが<小学生のアタマのまんま>であることは,「何 (what)・なぜ (why)?」の形の問いを投げかけてみればわかる。 例えば,
      「かけ算とは何?」
      「ここでかけ算が使われるのはなぜ?」
    「何・なぜ?」の問いに,教員は「????」になる。

    教員はどうして「自分は算数をわかっている」と思うのか?
    「いかに (how)?」に答えられるからである。
      「12 × 34 の計算は?」

    「いかに?」に答えられることを「できる」と謂う。
    「何・なぜ?」に答えられることを「わかる」と謂う。
    教員は,算数ができるが,わからない。


    しかし,教員は「自分はわかっていない」を意識しない。
    算数に「何・なぜ?」の問いがあることを知らないからである。
    「知らぬが仏」というわけだ。

      10年目研修で算数・数学を受けにきた小・中学校教員に,わたしは毎回「大学卒業後数学の勉強をしたことは?」とたずねるのだが,答えはいつも「ない」である。
      彼らが数学を勉強しないのは,
        「小・中学の数学を教えるのに,数学の勉強は必要ない」
      と思っているからである。そして,彼らはつぎのように思っている:
        「自分は小・中学の数学を知っている」
        「授業づくりは,自分のいまのアタマで十分」
      授業をつくるとき彼らが目を通す本は,生徒が使う教科書。
      徹頭徹尾,小・中学生のアタマで授業をつくっているわけである。


    小学生に「算数の授業設計」を課したらどうなるか?
    <児戯>になる。
    算数理解での教員のアタマは,小学生のアタマと変わらない。
    したがって,教員に「算数の授業設計」を課したら,<児戯>になる。

    「何・なぜ?」の問いをもち,そしてこれに答えられるようになるには,どうしたらよいか? ──数学を勉強する。
    「何・なぜ?」の問いと答えは,数学にある。


    まとめよう。
    教員は「いかに?」に答えられるので,算数をわかっていると思う。 「何・なぜ?」の問いがあることを知らないので,この<自足>は壊されない。 したがって,<子どものまんま>で授業する。

    教員が数学に向かうことがあるとすれば,それはつぎのときである:
    1. 「何・なぜ?」の問いがあることを知り,
    2. それに答えられない自分に気づき,
    3. 「何・なぜ?」の答えは数学にあるということを知らされ,そして,
    4. 「何・なぜ?に答えられないのは拙いか──数学をやるしかないか」と思うようになる。

    この4段階の最後まで進むことは,稀である。
    ──すなわち,数学に向かう教員は稀である。