1「数学学習に向かわせる」ことの課題化
1.1 数学教育を合理化する伝統的論法の無力化
数学教育学を専門にする者として,わたしには近年数学教育をめぐる状況は一種危機的な様相を呈しているように思われます。
「理数離れ」の現象が顕著です。「理数離れ」は何も今に始まったことではありませんが,今日のそれは,「理解に努めることを放棄してはまずいのではないか」という(結局は)幻想──これまで学習者を縛りコントロールしてきた幻想──から,学習者があっさりふっきれてしまった具合になっているというところに,特徴があります。
実際,「理数離れ」は,個人の次元ではなく社会全体の将来を展望する立場に立ったときにのみ,憂慮すべき事態となります。「理数離れ」の報いが将来深刻な形で個人にふりかかるということは,余り考えられません。それに人々も,周囲が「理数離れ」なら自分の「理数離れ」に心配はしません。
もともと数学は生産の道具であり,道具として高く評価できるから学習内容にされているわけです。したがって,生産に関与しないことを選べば,すなわち生産はひとに任せて自分は消費者でやっていこうと決めれば,数学は自分と無用のものになります。
歴史的に,教育者はこの事実の隠蔽に努めるかのような言説を操ってきました。「一般陶冶」の主張です。実際,一般者に数学学習を課すためには理由がつかなければならず,そしてその理由は「一般陶冶」の他にはありません。
確かに「一般陶冶」は身体のうちに起こっています。しかし,それは言語化できない形で起こっています。仮に「数学」のできる人の容姿/資質が一般者の羨望するようなものであったなら,一般者は,目には見えなくとも,この「一般陶冶」を望むかも知れません。しかし,幸いなことに (^_^),「数学」のできる人の容姿/資質は一般者のうらやむようなものではありません。
断言:「一般陶冶」は,数学教育の理由づけとしてはいまや無力です。今日の子どもは,数学学習のこの手の合理化の論法にはのってきません。