「ファカルティ・ディベロップメント」の主題化の背景
- 「ファカルティ・ディベロップメント」を大学教官に主題化させるに至らせた要因は,いろいろあり,また相互に関連し合っています。ただそれらは「従来型の終焉」のことばで要約できるでしょう。
- ひとは,一般的傾向として,これまでのやり方を続けられるならば,あえてそれを変えようとはしません。従来型が不可能になってはじめてそれを改めることを始めるわけです。
大学は,「大学冬の時代」を間近に展望できるようになって,「従来型」に危機感をもつようになりました。そしてその改革に着手し始めました。
- ちなみに国立大は,「親方日の丸」の体質がたたって,私学と比べやはり出遅れが目立ちます。そして,新時代対応型のシーズの乏しい大学ほどその傾向は顕著です。教員養成系大学がそれです。
教員養成系大学は,学校教員養成のニーズの減少がはっきりわかっていながら,シーズに関して「つぶしが利かない」ため,有効な対策を打ち出せないでいます。
- 「従来型」を改める一つの方向が,学生を大学「商店」の「顧客」として大事にしようというものです。
「オンブズマン制度の導入」や「学生による授業評価」は,この流れに位置づけられます。
- オンブズマン制度についていえば,「顧客」と見ることで学生の「人権」も見えてきたということでしょう。
- 授業は,大学「商店」の最も重要な「商品」です。これが劣悪では,話しになりません。
しかし,大学教官は概して「授業者」として未熟です。実際,
- つぎのような経験に乏しい:
- 指導技術の訓練を受ける
- 指導技術を自己研鑽する
- 他人から自分の授業の仕方を批判される
- 「わからない」ことがわからないので,指導にならない。(身勝手な指導)
「ファカルティ・ディベロップメント」が課題化されてきましたのは,このような反省からです。
- 「ファカルティ・ディベロップメント」の言い回しで主題になっているのは,小中高の教師のいう「指導法」です。「指導法」といわずに「ファカルティ・ディベロップメント」と言うところに,大学教官という人種のうぬぼれ・自惚れが見えるというのは,わたしのちょっと意地悪な見方でしょうか(笑)
- 「ファカルティ・ディベロップメント」は,今日の「大学生の学力低下」の問題とも絡んできます。授業者の指導能力は,相手が「できない」ほど高くなければならないからです。
- そして「ファカルティ・ディベロップメント」は,業務評定の問題とも関わっています。
- 「従来型の終焉」は,年功序列・終身雇用の終焉です。時代は,成果主義に向かっています。メンバーを一律に扱う従来型は,仕事への意欲の阻害になるという理由で,今日では「悪平等」として問題化されるようになってきています。