問題の本質:<独り>精神性と役割行動の崩壊 作成: 2006-07-29
更新: 2012-02-02


    「<独り>ができないための私語」とは,端的につぎの問題である:

    1. 「ハイテンション」に示される精神病理的な問題
    2. 精神文化現象として,<独り>精神性が壊れている。
    3. 「授業」というシステムは,教員,学生の役割行動で保っているが,学生の側でこの役割行動が壊れている。

    本論考では,「<独り>ができないための私語」を専ら「<独り>精神性と役割行動の崩壊」の視点で考えることにする。


    「<独り>ができないための私語」の問題の本質は,<独り>精神性と<役割ゲーム>の崩壊。
    これの解決として行わねばならないことは,<独り>精神性と<役割ゲーム>の立て直し。

    「<独り>ができないための私語」は,教育のインフラの問題であって,特に指導法の問題ではない。 ──「授業の改善」「受講学生数の少数化」が解決の道であるように述べる者には,この問題構造が見えていないわけである。


    この問題構造を理解しやすいように,ここでコンピュータ・アーキテクチャの喩えを用いるとしよう:

      コンピュータの各種アプリケーションは,基本ソフトである OS (operating system) の上にのせられる。
      この OS が壊れると,アプリケーションが機能しなくなる。
      機能しなくなったアプリケーションに対して,アプリケーション層のところで解決を図ろうとするのは筋違い。 ──作業しなければならないのは,あくまでも OS の修復。


    ここでつぎの読み替えをする:
アプリケーション ─→ 授業
OS ─→ <独り>精神性と役割ゲーム


「<独り>ができないための私語」は,小中学校で言えば,「学級崩壊」の第一段階の相である。
「学級崩壊」は,生徒が,<独り>精神性を知らず,そして自らの「生徒」としての役割行動を無視している態である。

学級とか学校は,<独り>精神性の雰囲気と,教員と生徒が自分の役割を受け持ちつつ互いの役割を認め合うというゲームの形で,かろうじて立っている。
精神は,努めねば忘れられる。
ゲームはそれの規則が無視されるとき,ただちに止む。
こうして,学級とか学校は,ひとの<任意>の上に立った,ひじょうに脆弱なものだということになる。