教室の私語は,いろいろに解釈され,いろいろに理由がつけられる。
一方,真っ先にあたまに浮かぶ理由は,「教室の私語は,授業が耐えられないからだ」である。──ここで「授業が耐えられない」の意味は,つまらない,わからない,自分に合わない,等々。
しかし,この理由付けは,つぎのことを説明できない:
私語は相手を要する。これに対し,独りの行為──他のことを考える,居眠りする,別の授業のレポートを書く,等──に及んでもよいわけだ。
実際,「おしゃべりしながら授業を受ける」は,今日の教室の文化である。
「おしゃべりしながら授業を受ける」というのは,歴史的に,尋常のことではない。
実際,「おしゃべりしながら授業を受ける」が目立ってきたのは,ここ数年の間のことである。
つまり,ここ数年の間に,大学生において精神文化的な変化が生じている。
大学生の年齢から逆算すると,ここ十数年の間に,精神文化的な変化が小学校から始まっている。1990年以降ということだ。
ひとむかし前の大学の場合,教室の学生は,授業に参加するにせよしないにせよ,「独自」の構えをとっていた。「教室では友人と隣り合わせに座り,語らいながら授業を受ける」という概念/精神文化がそもそもなかったので,友人と隣り合わせに座るということもなかった。
類推 : |
映画を観るも,「友人と隣り合わせに座っておしゃべりしながら観る」に進む。
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この「教室の私語」は,「<独り>ができないための私語」である。
つぎの言い方が妥当になるときの「私語」は,「授業シャットアウト行動としての私語」である:
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「教室の私語は授業者の授業技術の低さによるのであって,教室の私語がここ最近ひどくなってきたのは,学生の反応がダイレクトになってきた (遠慮がなくなってきた) からに過ぎない。授業技術が高ければ私語は起こらない。」
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「<独り>ができないための私語」は,「授業シャットアウト行動としての私語」と区別される。
実際,「<独り>ができないための私語」は,授業技術とはいちおう関係がない。
<独り>ができないための《おしゃべりをしながら映画を観る》は,映画の質とはいちおう関係がない。
これと同じ意味で,「<独り>ができないための私語」は,授業技術とはいちおう関係がない。
ただし,現前の私語は,「<独り>ができないための私語」と「授業シャットアウト行動としての私語」が渾然とする。
つぎは,これの事例になるものである:
- これは,わたしが実際出会ったことである。
北海道教育大学札幌校の1年生対象の授業「教職論」では,15回の授業のうち数回,外部講師の講演 (毎回別の講師) を行う。
8クラスに分けられた学生およそ200人全員が,このときはホールに集まる。
講演開始前の学生の私語は,講演をこれから始めるのアナウンスがあっても,いっこうに収まらない。
私語をやめの注意があってもいっこうに収まらない。
「こら,いいかげんにしろ!」くらいのことばが出て,ようやく収まる。
- 読売新聞 2006-6-10 (北海道版)
生徒に「ぶっ殺すぞ」──中学教諭私語多く、たまりかね
札幌市西区の市立西陵中の40代の男性教諭が今月2日、2年生の社会科の授業中に、「ぶっ殺すぞ」と暴言を吐いていたことが分かった。教諭は不適切な発言だったとして5日、教室で生徒に謝罪したという。
市教委によると、教諭は授業が姶まっても私語が多い生徒たちの態度に冷静さを失い、「(授業が始まる前になっても)ふらふら歩いていたらぶっ殺すぞ」などと発言した。
教諭は、日ごろから授業が始まる前には着席するように指導していたが、授業が始まっても生徒がざわついていたため、不適切な言葉が出たと釈明しているという。
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ここには,「<独り>ができないための私語」がある。
──「授業開始」は,「授業開始前の私語 (隣人交流) をそこでやめる」の意味をもたなくなっている。
あわせて,「授業シャットアウト行動としての私語」もある。
授業がはじまっていないのに「授業シャットアウト行動としての私語」であるとは,どういうことか?
これまで下手な授業を受けさせられてきた経験が,いまから開始する授業に対し,はやくも「授業シャットアウト行動としての私語」を起こさせたということである。
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