「<独り>ができないための私語」の問題の根深さ 作成: 2006-06-17
更新: 2012-02-02


    「<独り>ができないための私語」は,私語する当人には端から問題意識化されていない。
    教職についていろいろ問題意識をもつはずの学校教員養成コースの学生も,教室で私語する。「<独り>ができないための私語」は,彼らの問題意識にも入ってこないほどに,自然でアタリマエである。

    実際,私語の注意を受けた学生は,声のボリュームを下げることで注意に応じたと考える。──こと左様に,無邪気である。


    「おしゃべりしながら授業を聴く」を学生時代やってきた者は,親になってもそのままである。──親になったからといって,「おしゃべりしながら」が改まるきっかけを,ことさら持つようになるわけではない。
    実際,今日,父母の授業参観での母親のおしゃべりが問題になっている。 そして,そのような母親をもつ子どもに私語を自己抑制する感覚が自ずと形成されるとは,考えられない。
    このように,「<独り>ができないための私語」」は世代的悪循環の問題としても捉えなければならない。


    「<独り>ができないための私語」は,「学級崩壊」の一つの要素である。 「勝手な行動」としてこれがまかり通ることは,その他の「勝手な行動」がまかり通ることと連動している。

    一方,「<独り>ができないための私語」が世代的に悪循環するという問題およびその深刻度を,社会はまだよく理解していない。 ──つぎの新聞記事に,マスコミをはじめとした社会の知力の程度を見るとよいだろう:

    読売新聞 2006-6-10 (北海道版)
    生徒に「ぶっ殺すぞ」──中学教諭私語多く、たまりかね

    札幌市西区の市立西陵中の40代の男性教諭が今月2日、2年生の社会科の授業中に、「ぶっ殺すぞ」と暴言を吐いていたことが分かった。教諭は不適切な発言だったとして5日、教室で生徒に謝罪したという。
    市教委によると、教諭は授業が姶まっても私語が多い生徒たちの態度に冷静さを失い、「(授業が始まる前になっても)ふらふら歩いていたらぶっ殺すぞ」などと発言した。
    教諭は、日ごろから授業が始まる前には着席するように指導していたが、授業が始まっても生徒がざわついていたため、不適切な言葉が出たと釈明しているという。

    つまり,マスコミは「暴言と謝罪」話にしたわけだ。──学校/市教委の方は知力を存分に発揮してくれただろうか? 特に,「<独り>ができないための私語」をする生徒に対する咎めに関して。