Up | 「努力した者が報われるようにする」がもたらすもの | 作成: 2006-10-22 更新: 2006-10-22 |
そしてこのとき,「努力した者が報われるようにする」が謳い文句として使われる。 「努力した者が報われるようにするのは,当然のこと。この考え自体には問題はない。」──と,おおかたは考える。 すなわち,おおかたは,このことばに欺される。 「努力した者が報われるようにする」には,欺しがある。そして,最初に欺されているのが,これを言い出した本人。 このときの「努力」には,「何を」が抜け落ちている。 そしてこの抜け落ちが,競争主義をあらぬ方向──つまり,失敗──に導く。 ダメな人間・組織は,「努力」を見せろと言われると,邪道に努力する。 また,ダメな行政は,邪道に努力させようとする。──評価項目に邪道を並べ,それで点数をつける。 なぜこうなるかというと,正道/王道は,点数をつけられないのだ。 正道/王道は,言えば,あたりまえのことが並ぶ。たとえば,「主題を正しく理解し,生徒の学力に適した主題表現を考え,適切な指導法を考え,的確なパフォーマンスで授業する」。 これらは,評価を担当できる者がいない/揃わないので,評価項目にならない。 箱と中身に分けると,点数をつけることのできるのは箱で,中身はつけられない。 そこで,「努力」を見せろと言われると (すなわち,目に見える成績を短期間に出すことを求められると),ダメな人間・組織は箱をせっせと揃えようとする。ダメな行政も,どれだけ箱があるかで評価する。 官製の競争主義導入──「努力した者が報われるようにする」──は,必ずこのようになる。 そして,「悪貨良貨駆逐」が顕著に起こる。 競争主義の導入は,本当に高い知性が必要になるが,そのような知性は,評価する側にも評価される側にもない。 そして,そもそも評価される側にそれだけの高い知性があれば,競争主義の導入が課題になることは最初からないわけだ。 官製の競争主義がもたらすのは,お体裁主義・日和見・追随・横並びの蔓延──つまり,卑しさの蔓延である。期待しているところの高潔な自立的主体など,決して出て来ない。 参考:『大学が壊れる形のケーススタディ』 |