Up 要 旨 作成: 2007-01-10
更新: 2007-01-10


    学校教育論は,だれもが一家言を持っている。
    学校教育談義には,だれもが参加できる。
    なぜか?──学校教育論には専門性はないのか?

    学校教育がおそろしく複雑系であるというのが,この「なぜ」に対する答え。
    複雑系であるので,多様な言及の仕方ができ,そして,言ったことの妥当性をチェックするような「これ」というものが存在しないので,発言に責任がともなわない。

      註 : 言ったことにチェックがかからないということは,裏返せば,そのことばには内容/意味が無いということである。


    学校教育論にはもちろん専門性があり,それは学校教育を複雑系として扱うことのできる専門性である。
    しかし,一般者は,学校教育論に対しては「専門性」という概念を端から持っていない。 「専門性」という概念がないので,自分が学校教育についてものを言えば,それが学校教育論になっていると思う。

    そこで,ディレッタントが学校教育を主導するということが起こる。
    行政の学校教育ディレッタントが,「有識者」として学校教育ディレッタントを集めて学校教育の施策を提案させ,学校教育の施策を最終的に決定し,そして学校教育の現場に下知する。

    こうして,学校教育は,その時代のムードに流されることになる。
    また,ディレッタント主導は当然の結果として学校教育の<失敗>を導くが,これに対しては,ディレッタントの取り替えが措置される。そしてこの結果は,学校教育論の振り子運動。


    したがって,学校教育をしっかり立てようと思ったら,学校教育を先ず「ムード,ディレッタント,トップダウン」から解放しなければならない。
    そしてこのためには,学校教育論の<作法>というものを心得るところから始める必要がある。

    このような立場から,以下「学校教育論 作法」を論考する。