Up 「裸の王様」を守る──「必修逃れ」の処分の意味 作成: 2006-12-15
更新: 2006-12-15


    今月13日(2006-12-13),北海道教委は,「必修逃れ」「いじめ」問題に関連して,教育長への戒告をはじめとする道教委幹部・職員,道立高校長・教頭の計143人の大量処分を発表した。
    処分は引責処分ではない。当事者として処分された。 つまり彼らは,処分内容になった「必修逃れ」ないし「いじめ」の問題を承知しそしてその問題行動を進めた者として,処分された。

    処分されたのは,公教育の<権威>である。
    <権威>は,どのような意味で処分されたのか?
    「教育者の風上に置けない者」として?──もしそうだったら,社会は「教育者の風上に置けない者」に教育を主導され続けることになってしまう。
    よって,この事件の意味をきちんと考えることが重要になる。

    「必修逃れ」と「いじめ」は,問題として異質である。ここでは,「必修逃れ」の方を取り上げる。すなわち,「必修逃れ」に関わる処分の意味を考えることにする。


    「必修逃れ」は,「生徒に善かれ」の思いで続けられてきた。 ──善いことなのだから,咎めは出てこない‥‥ 「ルール違反」を言うのは大人げない者であって,そんな者はいない‥‥

    ところが,「ルール違反」をマスコミが言い出してきた。
    いったん「ルール違反」が言われると,これは法律違反。
    法律違反なので,いい加減には扱えない。
    で,大事件になった。


    ここで興味深いのは,問題が「ルール違反」で終始していること。
    ルールの合理性については,これを信用している風はどこにも見られない。
    つまり「必修科目」を信用している風は,どこにも見られない。 ──文科省さえも信用していない。

    「必修逃れ」は,大騒ぎにはなったが,いささかも教育的に深刻な問題ではなかった。 それは,「必修逃れ」の内容が,「重要な必修科目の授業を受けない」ではなくて「現実の必修科目の授業 (=受けなくともいいような授業) を受けない」だったからだ。

    実際,「やらなくてもいいよ」で幕が引かれた。

      法律違反になることなので,「やらなくてもいいよ」は言えない。
      そこで,「やらなくてもいいよ」が暗に伝わるような雰囲気形成へ向かった。 現場裁量でやってもらって,文科省の方はこれを黙認する。 実際,この場合,頑固に「やる」を言い出すことは,みんなが迷惑するということ。


    以上のことは何を示している?
    「必修科目」が裸の王様であることを示している。
    みんなに「裸」であることが見えているが,互いに「裸」と言わないことで保っている。 そして,「裸」を認めないために,「必修逃れ」に関わった者の大量処分を行う。

    処分の罪状は何か?
    王様 (「必修科目」) が裸であることを「必修逃れ」という行動によって実質的に暴露したことが,処分された。 すなわち,「不敬罪」が罪状である。 ──特に,「教育者の風上に置けない者」という罪にはならない。

      註1 : 処分された側を弁護してこう言っているわけではない。実際,「必修逃れ」は弁護に値しない。
    2 : では,だれも悪くないのか? 「必修逃れ」で述べたように,軽んじられることを受け入れている (実際,軽んじられても仕方のないような授業をやっている) 必修科目担当教員が悪いということになる。 「必修科目担当教員=弱者」みたいなことがあれば別だが,そうでないなら,必修科目担当教員は「教育者の風上に置けない者」になる。 ──教科教育担当者には,このくらいの責任はある。