Up 国立大学における振り子運動の開始 作成: 2007-01-07
更新: 2007-01-08


    上滑りの学校教育論の今日いちばん程度の低いものは,「法人化」の国立大学において見ることができる。
    「大学教育」というものをこれまでまじめに考えてきたことのなかった土壌に「大学=採算事業」の荒唐無稽が降って下りてきたことで,国立大学はいま奇っ怪な「大学」を自らせっせとつくっている。

    大学人なら誰でも「これはおかしい」と思っている。 しかし同時に,「おかしい」と言わないことが真面目な態度であるというように,自ら律している。
    つまり,大学人が自ら進んで奇っ怪な「大学」を立て,そしてこれに服従しているのは,「裸の王様」の構造によっている。

      『裸の王様』の結末は,一人の子どもが「王様は裸!」を言うことで皆がこれを言い合えるようになったというもの。
      一方,一般に,現実にある「裸の王様」はひじょうに強固で,このようなことでは壊れない。 それは,<処分>という装置を伴わせているからである。 現実版『裸の王様』では,「王様は裸!」と言った子どもの処分が結末になる。


    国立大学には,学校教育論というものは無かった。 それを持たないのが「国立大学」である,という言い方もできる。
    しかし「法人化」で,学校教育論が上から降りてきた。 それは,「国立大学=採算事業」を中心に据える学校教育論である。
    そしてここから,国立大学の学校教育論の振り子運動が開始する。
    ──なぜなら,「国立大学=採算事業」は (「これを成り立たせたときは国家的損失になる」という意味で) 成り立たない。よって,「大学=採算事業」の学校教育論は,早晩,ファンダメンタリズムを趣とした学校教育論によって論難/反対されることになる。

    ただ,論難/反対する主体が問題である。
    この論難/反対は,大学の中からは出て来そうもない。
    おそらく,これからの国立大学は,行政の方で方針を決定しそれを下知してくれる形を望むようになるだろう。これが,自分たちの失敗を認め合わずに済む形になるからだ。