Up | 「必修逃れ」 | 作成: 2006-10-30 更新: 2006-10-30 |
大学受験指向のカリキュラムを組み,生徒が履修していない必修科目 (「世界史」) を履修したことにしていた高校が,新聞に取り上げられた。 そして,これをきっかけに,同じことをしている高校がつぎつぎと明るみになった。 で,必修科目を履修していない生徒たちに対しその科目の履修をどう措置するかが,いま問題になっている。 「必修逃れ」をやっているときの学校側の認識は,つぎのような感じになっている: 一方,「必修逃れ」はルール違反であるから,ルールに反撃しようというのでなければ,まったく申し開きが立たない。 で,身を小さくして叱責や指導をすべて甘んじて受けるという態になる。 対極的に,マスコミはますます増長し,居丈高になる。 最近の様子では,なにやら「臭い物に蓋」で終わりそうに見える。すなわち: しかし,教育学的には,今回の一件は,「必修科目」の意味を改めて考える絶好の機会である。 マスコミの型にはまったリアクションも,リアクションの類型を捉える上で勉強になる。 学校や教育委員会の体質も,よく見えてくる。 ここでは,「この問題の本質はどこにあるか」という視点で考えてみるとしよう。 この件でいちばん肩身が狭いのは誰か? それは,校長などではなくて,世界史を担当する教諭だろう。 「必修」と持ち上げられながら現実には必要とされていない教科,世界史。 実際,「生徒にいまから世界史を授業しろ」になったときには,ただ形作りのために世界史の授業をやることになる教師は,みじめでたまらないだろう。 「必修逃れ」の問題の本質はこうだ:
これの現実の授業が必修に値することを意味しない。 「履修していない科目を履修したことにする」は,大学院ならよくあることだ。 この場合には,「受験一辺倒で本来の指導がないがしろにされている」タイプの批難は立たない。 実際,ここでは,「大学院本来の指導」をするために「履修していない科目を履修したことにする」をやる。 大学院の教育方法論は,
「一つを深くは,転移の要件でもある」
「必修科目」を本格的・本質的に問題化すれば,人・社会・国の存在理由,形と実質,コストと効果といった問題が,広範囲にそして深く掘り起こされることになる。 これはもう,学術的な問題領域である。 大衆的には「けしからん」「生徒がかわいそう」の議論でよいが,「けしからん」「生徒がかわいそう」にこの問題をリードさせたときは (すなわちマスコミや教育行政にこの問題をリードさせたときは),たいへんなことになる。 「必修逃れ」の問題に戻ろう。 さて,世界史は必修科目に値しないのか? わたしは,世界史は必修科目に値すると考える。 ただし,世界史の授業者は,自分の授業が「必修に値する」と認められるためには,相当のことをしなければならない。(「温故知新」)
まして,数合わせ・形作りのためにやって済ませられる授業ではない。 「必修逃れ」に対し,ルール違反を許してしまうことによるモラル・ハザードを考えれば,数合わせ・形作りに過ぎなくとも世界史の授業をいまからでも課せとなる。 しかしこのときには,数合わせ・形作りの授業を許すというモラル・ハザードをつくっている。 この度の「必修逃れ」の問題に対する措置は,つぎのものである他ない: 世界史担当の教師が悪者になってしまった。 変だろうか? わたしは,世界史のいい加減な扱いに反対することをしなかった (結果的に,世界史担当の責務意識が低いことになる) 世界史担当の教師がいちばん悪いと考える。 そして,しっかり反対していたときには,これを斥けた者が悪いということになる。 個々がしっかりしていれば,学校もおかしくならない。学校がおかしくなるのは,個々の責務感覚がおかしくなっているからだ。 |