Up オトナは組織犯罪へ──「道徳教育」が立たない構造 作成: 2006-12-25
更新: 2006-12-25


    モラルの国民的欠如が政治問題化されている。
    行政は,「子どもに対する道徳教育」を課題として立てる。

    モラルの問題は,単純ではない。
    この場合の「単純でない」の意味は,つぎの2通り:
    • 「道徳的」の功罪
    • 「道徳教育」が立たない構造

    ここでは,「道徳教育」が立たない構造について簡単に押さえておく。


    「道徳教育」は,はじめから無理を背負っている。
    「道徳」は,そもそも<ウソ>である。
    実際,「オトナに対する道徳教育」は主題にならない。なぜ?
    それは,「道徳の学習を修了したものがオトナ」という意味からではなく,「オトナの社会では道徳は裏切られる・歪められる」からだ。

    これの端的な証拠が,「組織犯罪」。
    組織犯罪は,「<不都合>の隠蔽,組織トップの保身,トップに対する組織構成員の気兼ね/忠誠」に他ならない。
    そしてこの構造に関しては,組織種別は関係ない。

    実際,「組織犯罪」は,国を指導する立場の組織を筆頭に,すべての組織種別に及ぶ。
    教育を指導する立場ということになっている文科省も,「<不都合>の隠蔽,組織トップの保身,トップに対する組織構成員の忠誠」で平然と教育を歪める。
    シリーズ :「居ながら工事を宿命づけられた大学」のケーススタディおよびシリーズ : 大学が壊れる形のケーススタディでは,大学を実例に「モラル」「組織犯罪」を考察しているが,そこではつぎが主調の一つになっている:

      教育を行う場での環境被害・健康被害の無視・放置」を不道徳・犯罪と説く役割を担う大学も,自分のこととなると平然と隠蔽・ごまかし・まやかし・はぐらかしを行う。


    独裁国家は情報操作・管理・統制で保つ。 これを斥けて情報の自由を国民に与えるとき,組織犯罪がバレバレになり,道徳のウソがバレバレになる。
    道徳の本質は「正邪・善悪」の二値論ではなくプラグマティズムであり,このプラグマティズムを身につけさせるのが「道徳教育」だが,このような微妙な「道徳教育」は,道徳のウソがバレバレの社会ではなんとも立ちにくい。

     強調 : ここで謂う「道徳教育」は,自由主義社会の道徳教育である。 (「指導者/中央崇拝」が「道徳教育」に代わる国の道徳教育ではない。)

    実際,道徳教育の中心主題の一つに,つぎのものがある:

      保身のための不都合の隠蔽・ごまかし・まやかし・はぐらかしはやるな
      それは世の中を悪くするばかりでなく,自分のためにもならない

    「いじめ」「必修逃れ」の問題は,教育委員会および学校責任者の大量処分に至った。 教育を指導する上位者が,自分の「保身のための不都合の隠蔽・ごまかし・まやかし・はぐらかし」を暴露されてしまった。 「面目丸つぶれ」の格好だが,いまは失敗学として「道徳教育の教材に自分を反面教師として使ってもらう」という前向きの考え方に転じるしかない。

     註 : つぎの問いに自分がどう答えるかを考えれば,「モラル」の問題の難しいことが得心されるだろう:
      教育行政組織における「保身のための不都合の隠蔽・ごまかし・まやかし・はぐらかし」の体質は,「いじめ」「必修逃れ」の事件を契機に,今後改まるか?