Up | 体罰禁止の理由は,「面倒くさいから」 | 作成: 2008-03-15 更新: 2008-03-15 |
これは「よい・わるい」の考えから禁止されているのではない。 いろいろ面倒くさいことになるから,禁止している。 ただ,「<いろいろ面倒くさいことになるから>を理由として言うわけにもいかない」を自分の立場と考える者たち (教育委員会とか学校管理職など) は,法律とか「人権」とかで体罰禁止の理由づけをやることになる。 いろいろ面倒くさいことになるのは,場面も当事者も多様であるからだ。 批評する者も多様だから,賛否両論になる。
「自分がやられたらどう思う」の体罰は有効なものである。 一方,これを一般的に「有効」と言ってしまうと,いろいろ落とし穴が待っている。 「教育」は素人談義のしやすいもので,「こうすればいい」が簡単に言い合われる。 しかし教育は,「どの一つの方向選択にもたくさんの落とし穴が待っている」という,とんでもない複雑系である。 「どの一つの方向選択にもたくさんの落とし穴が待っている」とんでもない複雑系であるところの教育は,自ずと,「いろいろ面倒くさいことにならないように」でリードされるものになる。 「事なかれ主義」というやつである。 面倒くさいことになりそうなものの一括禁止に進む。 上に引用の例では,「男性教諭は治療費を負担し、生徒や保護者に謝罪」が<落ち>となった。 これに対し,文章にすれば同じく
「体罰」の問題は,つねに「事なかれ主義」の問題を反照的に現す。 体罰は禁止されているが,依然教育現場で無くならない。 ──これは,困ったことではなく,<救い>である。 「体罰」禁止のルールに即反応して体罰が教育現場に一切無くなる状態は,「事なかれ主義」への屈服を意味する。 そこで,問題は,<知恵>である。 「規則」は,「いろいろ面倒くさいことにならないように」の事なかれ主義がつくる。 それだけのものである。 「信号の赤では止まれ」は,自分以外車のない道にも適用される。 大事なことは,規則に従うことではなく,規則を適切に逸脱して社会の精神の<健全>を保つことである。 ただしこれが可能になるためには,「適切と思える体罰には,応援することを憚らない」が社会の精神に存していなければならない。 これは,個々人の自覚と実践の問題である。 |