Up | 教員の学力 | 作成: 2007-01-11 更新: 2007-01-11 |
一般に,彼らの数学の学力は,自分が生徒に教えるときに使う数学教科書の内容とレベルを超えない。 彼らは,<できる>ことで自足する。 この<できる>は,<わかっていない>を隠蔽する。 実際,彼らは自分の<わかっていない>に気づかない。 ある物事をわかるためには,それが置かれているより広い世界に出て,外からそれを見られるようにする必要がある。 内側にとどまり,内側から見ているだけでは,それをわかることはできない。 彼らは,<できる>ことで自足し,外に出ようとしない。 実際,教員の職に就いて後は,数学を勉強することはない。 外に出ようとしないのは,自分の<わかっていない>を知らないからであるが,さらに仕事の多忙が,外に出ることを閑却させる。 彼らの数学の学力のピークは,高校ないし大学の数学コースのところにあって,それ以降は落ちるのみとなる。 彼らが授業で使っている数学教科書は,数学が苦手な生徒を見込んでつくられている。 「ウソも方便」のスタンスで,「だましだまし」をやっている。 教科書の内容は,論理的に読むことはできない。 論理的にはメチャクチャなのである。 しかし彼らは,このような教科書を論理的に読むことができ,そして自分が数学ができることを疑わない。 このことは何を意味するか? ──数学および論理を知っていない・わかっていないということである。 「ウソも方便」の確信犯で授業する立場の者が,ウソをホントと思って授業する。 なんともグロテスクな絵である。 しかし,このグロテスクは問題として浮かんでこない。 なぜなら,学校数学は<できる>の次元で終始するからだ。<わかる>は問われない。
<できる>が低いレベルのうちは,<わかる>無しでもかなりのところをやっていける。 しかし,レベルが高くなるにつれ,わかるべきことがわかっていないとできなくなる。 学年が上がって学生がつぎつぎと数学でドロップアウトするのは,上にいくほど学校数学が難しくなるからか? それもあるが,つぎの点が重要である:
<わかる> (論理) が成り立たなくなる。 数学のように,<できる>が<わかっていない>を隠蔽してしまう教科の場合,教員は学力向上に努めることをしない。 よって,学力のない教師として過ごしていく危険が大きい。 「学力向上に努めることをしなければならない」という意識は,どこでつくられるか? 大学の学校教員養成コースでつくるしかない。 そこでつくられないと,以後,つくられないままになる。 実際,「ある物事をわかるために,それが置かれているより広い世界に出て,外からそれを見る」には,専門的な指導が要る。 そしてこの指導を行うのが,大学の学校教員養成コースである。
なぜこういうことになるのか?──学校教員養成コースの教員であっても他の分野のことはわからないため,「専門性」に対する理解の軽薄な者が執行部に集まってしまうということも起こり得る。 学校教員養成コースにおける専門性陶冶の軽視は,教員の学力低下とリンクしている。 しかし,このことがよく理解されていない。 「実際的な教育」と称して教育実習的な授業を増やしても,それによってアタマが出来上がっていくわけではない。 アタマはアタマとして鍛えるしかないのである。 |