Up 「環境問題」論議の思考停止パターン 作成: 2007-12-11
更新: 2007-12-11


    「環境問題」は複雑系である。 これを論ずれば,そこかしこに思考停止を犯すことになる。
    それは,しようがない。 肝心なのは,このことに自覚的になれるかどうかである。


    ○「行動する者は正しい」

    「環境問題」に取り組んでいこうとする者は,これを運動組織論と一緒にする傾向が強い。 地歩を固める作業を後回しにして,運動組織論の方にすぐにジャンプする。
    このときの思いは,「地歩を固める作業は,運動組織の中で!

    運動組織は勉強・修行の場でもあるから,先ずは組織に入る」という考えは,一般に受け入れられている。 しかし,これは間違いである。
    先ずは組織に入る」で集まれば,そこに確かな勉強・修行が起こるか?
    これがないことは,「小学生が集まって自分たちで勉強・修行しても,大人にはなれない」のと同じである。

    勉強・修行に対する運動組織の効果は,むしろ逆である。 すなわち,勉強・修行が起こっていないのに,「勉強・修行が起こっている」と錯覚させる。

    「あなたは見てるだけ?」「わたしたちと一緒に行動しましょう」
    この場合,「なぜこの行動か?」「なぜわたしたちと一緒か?」が思考停止されている。

    小学生グループが大人に向かって「あなたは見てるだけ?」「傍観者はやめて,わたしたちと一緒に行動しましょう」と言う風景は滑稽である。
    「小学生」の意味は,年齢ではない。能力である。 そして,「環境問題」の前には,だいたいが小学生ないし赤ん坊である。

    「あなたは見てるだけ?」「わたしたちと一緒に行動しましょう」を言う前に,自分が先ず小学生ないし赤ん坊を脱しなければならない。
    そして,小学生ないし赤ん坊を脱するとき,「行動」の内容も最初自分が思っていたものとは様変わりしている。


    ○「少しでも」「できるところから」「やらないよりまし」

    このことばも,運動組織論のことばである。 そして,思考停止がある。

    塵が積もれば山となるか? ならない。 「塵が積もる」と「山」の間には連続性がないのである。 (塵の積もり方には,山になるような積もり方はない。)

    「やらないよりまし」とひとは言う。しかし,「やらないよりまし」を自分自身ほんとうに計算したわけではない。
    ちなみに,思いつきで始めた「やらないよりまし」は,たいてい「やらないほうがまし」で終わる。


    ○フィクション創作

    「環境問題」の論議は,フィクション創作自由の状態になってしまう。
    論理の鍛錬を受けていない者は,自分の推論のおかしさに自覚的になれない。 自分ではしっかり筋の通った論をつくっているつもりで,荒唐無稽な話を紡ぐ。

    「環境問題」は,どんな小さな問題に見えるものも,それをつまみ上げれば,広範囲の領域 (社会・経済・文化,生態系,自然科学) にわたる数多くの問題の絡み合ったネットワークが,これにつながって持ち上がる。
    この問題を解く作業は「研究」である。

    学生は,この研究能力の鍛錬に学生時代をしっかり使うべきである。
    ──確認: 学生の本分は,研究能力の鍛錬。

      学生の場合の「研究能力の鍛錬」の意味は,「研究能力を高める」ではない。 学生は,「研究能力が無い」が初期状態。 研究能力の鍛錬を自ら意識的に行わなければ,研究能力が無いままで学生時代を終えてしまう。