Up | 論語・学而 | 作成: 2007-04-01 更新: 2007-04-01 |
学問のエッセンスをこの短い文に見事に収めたものだと,改めて感心する。 一方,この文の含蓄を鑑賞できるためには,ある程度の学問経験・人生経験が必要になるだろうなあと思う。 この一節の解釈は,ひとによって微妙に (あるいは随分と) 違う。 翻って,それぞれが自分の想いで読めるというのは,古典としてずっと生きてきた理由の一つである。 以下,わたしの解釈を示してみる。 学而時習之,不亦説乎。 (学びて時に之を習う,亦説ばしからずや。)
「学」は,授業を受けたり本を読んだりのこと。すなわち,ひとから教えを受け,それの理解に努める相。 「習」は,自分のある経験によって,学んだことに合点/得心がいく相。 合点/得心は,偶然やって来る。そこで,「時に」となる。 そして,学んだことに合点/得心がいくとき,すなわち役に立つようになるときは,うれしい。 (「学問していてよかった^^」) 有朋自遠方来,不亦楽乎。 (朋遠方より来たる有り,亦楽しからずや。)
「朋」は「同類」の意味である。 「あなたのことを伝え聞き,ぜひ会ってみたくなり,やってきました。」という輩が,ここで謂う「朋」。 突然こんな人が現れるので,びっくりし,そして楽しくなるというわけだ。 (「学問していてよかった^^」) 人不知而不慍,不亦君子乎。 (人知らずして慍みず,亦君子ならずや。)
「ひとは自分を理解しようとしない」と不満をもつのは,修行の足りなくて未熟だから。 「ひとが自分を理解しようとしない」は「個の多様性」の現れなのだから,健全でありかえってよろこばしいことだ。 学問をやっていれば,このことが自ずとよくわかってくる。 (「学問していてよかった^^」) |