Up | 感情論と理論 | 作成: 2007-02-03 更新: 2007-02-03 |
その「失言」は,「女性=生む機械」:
この現象は,マスコミと政治のインテリジェンスのタイプをうかがわせ,そしてさらにインテリジェンス一般について改めて考えさせるという点で,興味深い。 機械論は,科学の常套である。 数学の「関数 (function)」は,存在や事象を<機械>として見るというアイデアだ。 科学は機械論的展開を自らの方法論にしていて,「関数」を基本中の基本の概念としている。 認知科学は認知を<機械>のアナロジーでとらえようする,理論物理は現前を<機械>とみてその機械のルールとして自然法則を探求する,等々。 機械論を行う者は,対象を機械だと思っているのではない。 対象を機械と見なすことが探求や問題解決を効果的に進める方法になるので,機械論を用いる。
わかりやすく言えば,科学者にとって<真理>はどうでもよいもの。 科学者は一つの方法論を択びこれの展開を試行する──これによって同時に,この方法論の可能性を探る。 それのみ。 これは,「試行結果の中に<真理>は示される」という立場だ。 「打てば何かが返ってくる」が<真理>の形。よって,<真理>は「とらえる」のではなく,単に「示す」。 マスコミと野党は,柳沢の「女性=生む機械」発言を,「柳沢=女性のことを生む機械と思っている人間」にする。 「女性のことを生む機械と思っている人間でなければ,こんな発言にはならない」というロジックを立てる。 柳沢本人と任命権者安倍の方も,ひたすら平謝りのパフォーマンス。 一般者は,このロジックやパフォーマンスから退いてしまう。 方法としての喩え,方法としての機械論というものを,承知しているからだ。 また同時に,そのロジックやパフォーマンスに,うさんくさいもの,いやらしいもの,あぶないものを感じるからだ。
しかし,一般者は,「女性のことを生む機械と思うとは,内容的にどういうことか?」と考える。そのうえで,「女性のことを生む機械と思えるものだろうか?」と考える。 そして,上のようなレトリックが通用すると思っている知性を軽蔑する。 マスコミと政治は,<感情論>でやる。 彼らは,これが一般者に対する方法になると思っている。 しかし,実際は,一般者はこれから退いてしまう。 一般者は,存外,<理論>につく。そして彼らの理論が,マスコミや政治の感情論から彼らを退かせる。 マスコミと政治はどうして感情論につくのか? それは,「大衆を指導・啓発する」という自己優越・大衆蔑視が体に染みていて,「大衆操作」を「煽動する」という形で考えてしまうからだ。
しかし,この「大衆蔑視」は,この時代にはあわないものになっている。 マスコミは正義の味方を振る舞うが,一般者は信じない。 政治的感情論も,「支持政党なしが半数」の形で一般者から軽蔑される。
「感情論はあぶない」の方法論として,感情論に対立するものは? それをここでは<理論>と見る。 理論を考えるとき,理論のこの意義を見ていくことが重要になる。 そしてこの意味から,「理論の修行」がテーマになる。 ──実際,理論が弱ければ,感情論に煽られる。(理知の内容は理論である。)
以前は,理論の役回りを果たすものの一つに文学があったが,時代の流れで,文学にその力はすでにない。 |