Up 「なに・なぜ」を考えられること 作成: 2006-02-09
更新: 2006-04-06


    数学を勉強しているという学生に,一つの数学的主題についてそれの「なに・なぜ」を問うと,きまって答えに窮する。
    これは,彼らが主題の「なに・なぜ」を考えることをしないで「勉強」していることを意味する。

    「なに・なぜ」を考えることをしない数学の勉強は,本来あり得ない。では,どうして彼らは「勉強している」気になれているのか?

    彼らは「求められていることをその通りにする」を一生懸命やっており,そしてそのことでもって勉強しているつもりになっている。
    一般に,ひとが「求められていることをその通りにする」ときは,「なに・なぜ」を考えずにやっている。そして,「求められていることをその通りにする」ことで,ひと仕事した気になる。「よくできました」と言われて,よろこぶ。


    数学教育を専門にしていると,「できる」(操作ができる) に対し「わかる」(操作の意味がわかる) を区別するこだわりが強くなる。(これはおそらく,他の教科教育よりもはるかに強いのではないかと思う。)
    どうしてこうなるかというと,数学では「アブストラクト・ナンセンス」をやってしまえる。「アブストラクト・ナンセンス」は,「数学=形式の学」のように数学に対するときに陥る。形式には根拠(意味)があるのだが,根拠(意味)を閑却して形式に<遊ぶ>ということができてしまう。(主題の「なに・なぜ」を問うと答えに窮するのは,こんなふうに数学とつき合っているときだ。)

    「できる」と「わかる」の区別を立てることが重要である。
    自分がいま行っていることの「なに・なぜ」を,本質のレベルで考えられるかどうかということだ。