Up 「講義を聴く」 作成: 2008-04-03
更新: 2008-04-03


    大学の伝統的な授業の形に,「講義」がある。
    「講義」は,教師のことばを学生が書き写す。
    昔は,コピー機などが無かったし,本も簡単につくれるものではなかったので,学問の伝承をこんな形で行った。 学生が筆記した内容が,だれそれの「講義録」として残って,教科書になる。 ちなみに,この方法だと,複数の講義録ができ,それぞれが筆記で伝承されることで,「異本」が並ぶようになる。

    昔といっても中世ヨーロッパのかびくさい話というわけでもなく,わたしが大学生の頃にも,自分のノートを音読して学生に筆記させるという授業があった。
    いまはどうか?
    基本形は変わっていない。 ──授業者が学生に向かって話す。


    授業者は,自分の授業を学生がそっくり受け取ることを想定している。
    実際は?

    授業も情報も氾濫しているこのご時世では,授業はありがたいもの (一回性のもの) ではない。 「講義」は,「教師が話し,学生が聴き流す」形になる。
    「聴く」授業は,授業が終わって講義室から出たときには,アタマの中に何も残っていない。 人間の脳は,流れることばを記録する芸当はできない。流れるものは流してしまう。
    こうして,「片や自分の授業を学生がそっくり受け取ったと思っている教員,片やアタマに何にも残っていない学生」の図になる。

      「ことばを書き写す」授業も,講義室から出たときにはアタマの中に何も残っていない。しかし,この場合はノートが残っている。口伝時代の学生は,このノートから改めて勉強を開始したわけだ。


    「講義」の形がいまも続いているのは,単にこれがお手軽な形であるからだ。 授業メディアとしてよい,という理由からではない。
    学習の形は,「カラダを使う」である。
    人は,聴かされた後で「さあ,やってみろ」と言われても,できない。
    <見る・聴く>と,<見た・聴いたものが自分でできる>は,次元の違うことなのだ。

    <自分で実際にやってみる>は,小学校の授業ならあたりまえ。 中・高校でも,あたりまえでなければならない。 ところが,大学になると,一挙にこれが無くなる。
    「大学生は<自分で実際にやってみる>を授業外で (すなわち自習として) 行う」と想定していることになるが,この想定に応じる学生はいない。

      いまの「勉強しない大学生」だから勉強しないというのではない。 大学生は昔から大学の授業の勉強はしないものだ (極く選別的に勉強するのみ)。


    肝心なことは,授業者が「講義」の分限をしっかりわきまえることである。
    「講義を聴く」は学習にならない。 授業には,<自分で実際にやってみる>が組み込まれていなければならない。 特に,授業は,内容盛りだくさんにはできない。
    併せて,学生は,「講義を聴く」を学習の形として受け取らないよう指導される必要である。