Up | 修行のモデルをもつ | 作成: 2006-05-09 更新: 2006-05-09 |
入門者の場合,「修行」と言われてもどうすることなのかわからない。 そこで,修行のモデルをいくつか持つことが役立つ。 修行のモデルは,周りを見ることから始まって,各種情報,メディアにあたることで,いろいろ見つかる。 その中から気に入ったのを,モデルとして持てばよい。 わたしなどは,自分の年代的経験から,『福翁自伝』(福沢諭吉) の「緒方の塾風」に書かれているような修行がしっくりくる。( 一部抜粋) コミックにも,良質な修行はいろいろ見つかる。(というより,日本ではコミックが「修行/求道/修身」の授業を担当している感がある。) わたしの場合,現在刊行中のものでは,やはり「バガボンド」。 昔のものでは,なんといっても「ドラゴンボール」。死ぬぎりぎりまで行くことではじめて能力アップ(最終的にスーパーサイヤ人になる) がテーマだが,「確かにそうなんだろうなあ」といちいち納得させられる。バイブルである ^^
塾生の勉強 およそこういう風で,外に出てもまた内にいても,乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ一寸(ちょい)と一目見たところでは──今までの話だけを聞いたところでは,如何にも学問どころのことではなく,ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが,そこの一段に至っては決してそうでない。学問勉強ということになっては,当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる。 その一例を申せば,私が安政三年の三月,熱病を煩ろうて幸いに全快に及んだが,病中は括枕(くくりまくら)で,座蒲団か何かを括って枕にしていたが,追々元の体に回復して来たところで,ただの枕をしてみたいと思い,その時に私は中津の倉慶敷に兄と同居していたので,兄の家来が一人あるその家来に,ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが,枕がない,どんなに捜してもないと言うので,不図思い付いた。 これまで倉屋敷に一年ばかり居たが,ついぞ枕をしたことがない,というのは,時は何時でも構わぬ,ほとんど昼夜の区別はない,日が暮れたからといって寝ようとも思わず,頻りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば,机の上に突っ伏して眠るか,あるいは床の間床柱を枕にして眠るか,ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは,ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ,これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。 これでも大抵趣きがわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない,同窓生は大砥みなそんなもので,およそ勉強ということについては,実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。 それから緒方の塾に這入ってからも,私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に,もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというのが,今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を読んでいて,台所の方で塾の飯炊がコトコト飯を焚く仕度をする音が聞えると,それを合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上ったころ起きてそのまま湯屋に行って朝湯に這入ってそれから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが,大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。 勿論衛生などということは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども,誰も気が付かなかったのか或いは思い出さなかったのか,一寸でも喧しく言ったことはない。それで平気で居られたというのは,考えてみれば身体が丈夫であったのか,或いはまた衛生々々というようなことを無闇に喧しく言えば却って身体が弱くなると思うていたのではないかと思われる。 原書写本会読の法 それから塾で修業するその時の仕方は如何いう塩梅であったかと申すと,まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかというと,そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい,一をセインタキスという。初学の者には,まずそのガランマチカを教え,素読をを授ける傍(かたわら)に講釈をもして聞かせる。これを一冊読了る(よみおわる)とセインタキスをまたその通りにして教える。 如何やらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。会読ということは,生徒が十人なら十人,十五人なら十五人に会頭が一人あって,その会読するのを聞いていて,出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で,ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると,それから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして,会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず,また質問を試みるような卑劣な者もない。 緒方の塾の蔵書というものは,物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取り集めて僅か十部に足らず,固よりオランダから舶来の原書であるが,一種類ただ一部に限ってあるから,文典以上の生徒になれば如何してもその原害を写さなくてはならぬ。銘々に写して,その写本をもって毎月六斎ぐらい会読をするのであるが,これを写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから,誰が先に写すかということは籤(くじ)で定(き)めるので,さてその写しようは如何するというに,その時には勿論洋紙というものはない,みな日本紙で,紙を能く磨(す)って真書で写す。それはどうも埒(らち)が明かない。埒が明かないから,その紙に礬水(どうさ)をして,それから筆は鵞筆(ガペン)でもって写すのがまず一般の風であった。 その鷲筆というのは如何いうものであるかというと,そのとき大阪の薬種屋か何かに,鶴か雁かは知らぬが,三寸ばかりに切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。これは鰹の釣道具にするものとやら聞いていた。価は至極安い物で,それを買って,研ぎ澄ました小刀でもってその軸をペソのように削って使えば役に立つ。それから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壷というのは,磨った墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが,私などが原書の写本に用いるのは,ただ墨を磨ったまま墨壷の中に入れて,今日のインキのようにして貯えて置きます。 こういう次第で,塾中誰でも是非写さなければならぬから,写本はなかなか上達して上手である。一例を挙ぐれば,一人の人が原書を読むその傍で,その読む声がちゃんと耳に這入って,颯々と写してスペルを誤ることがない。こういう塩梅に,読むと写すと二人掛りで写したり,また一人で原書を見て写したりして,出来上れば原書を次の人に回す。その人が写し了るとまたその次の人が写すというように順番にして,一日の会読分は半紙にして三枚かあるいは四,五枚より多くはない。 自身自力の研究 さてその写本の物理書医書の会読を如何するかというに,講釈の為人(して)もなければ読んで聞かしてくれる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として,万々一もこれを犯す者はない。ただ自分一人でもってそれを読み砕かなければならぬ。 読み砕くには,文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書というものは,ここにヅーフという写本の字引が塾に一部ある。これはなかなか大部なもので,日本の紙で凡そ三千枚ある。これを一部こしらえるということは,なかなか大きな騒ぎで,容易に出来たものではない。これは昔,長崎の出島に在留していたオラソダのドクトル・ヅーフという人が,ハルマというドイツオランダ対訳の原書の字引を翻訳したもので,蘭学社会唯一の宝書と崇められ,それを日本人が伝写して,緒方の塾中にもたった一部しかないから,三人も四人もヅーフの周囲に寄り合って見ていた。 それからもう一歩立上ると,ウェーランドというオランダの原書の字引が一部ある。それは六冊物でオランダの註が入れてある。ヅーフで分らなければウェーランドを見る。ところが初学の間はウェーランドを見ても分かる気遣はない。それゆえ便るところはただヅーフのみ。 会読は一六とか三八とか,大抵日目が極っていていよいよ明日が会読だというその晩は,如何な懶堕生(らんだせい)でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋という字引のある部屋に,五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している。それから翌朝の会読になる。 会読をするにも簸(くじ)でもってここからここまでは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持っているので,五人なら五人,十人なら十人,自分に割り当てられたところを順々に講じて,もしその者が出来なければ次に回す。またその人も出来なければその次に回す。その中で解し得た者は白玉,解し傷(そこの)うた者は黒玉,それから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んでしまったという者は白い三角を付ける。これはただの丸玉の三倍ぐらい優等な印で,およそ塾中の等級は七,八級ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三カ月占めていれば登級するという規則で,会読以外の書なれば,先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いてやり,至極親切にして兄弟のようにあるけれども,会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから,塾生は毎月六度ずつ試験にあうようなものだ。 そういう訳けで次第々々に昇級すれば,ほとんど塾中の原書を読み尽して,いわば手を空(むな)しうするようなことになる,その時には何か六かしいものはないかというので,実用もない原書の緒言とか序文とかいうようなものを集めて,最上等の塾生だけで会読をしたり,または先生に講義を願ったこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが,これを聴聞する中にもさまざま先生の説を聞いて,その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家,名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度のことで,講義終り塾に帰って朋友相互に「今日の先生の卓説は如何だい。何だか吾々頓(とみ)に無学無識になったようだ」などと話したのは今に覚えています。 市中に出て大いに洒を飲むとか暴れるとかいうのは,大抵会読をしまったその晩か翌日あたりで,次の会読までにはマダ四日も五日も暇があるという時に勝手次第に出て行ったので,会読の日に近くなると,いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強していました。 書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども,兎も角も外面をごまかして何年いたから登級するの卒業するのということは絶えてなく,正味の実力を養うというのが事実に行われて居ったから,大概の塾生は能く原書を読むことに達していました。 |