Up 授業を見る眼を養う 作成: 2007-06-17
更新: 2007-06-17


    授業を見る眼は,ひとに教えられて出来上がるものではない。
    基本的に,経験がこれをつくっていく。
    ただし,「真剣に取り組む」を条件として。

    また,自分のことは,自分の殻の中ではわからない。
    自分のことがわかるとは,他との比較でわかるということである。
    自分の授業は,他との比較によって見えてくる。

    そこで,他人の行う授業をできるだけ数多く見るということが,授業を見る眼を養う方法になる。
    そしてこれができるためには,自分の授業を互いに見せ合い・指導し合うことを,学校の中でアタリマエにしていく必要がある。

      いまの/これまでの学校には,教員同士が自分の授業を見せ合うという習慣がない。 「互いに見せ合わない」ことを合理化する風潮もある。

      互いに隔離された教室の中には,「拙い授業が外にバレずに助かっている」タイプの教員や,自分の授業に根拠なく自足する教員が,棲むようになる。

      「下手」は恥とすべきものではなく,ありがたい課題とすべきもの。──下手だから問題が持てる,そして向上できる!


    また,授業を見る眼は,ただ見ることで養われるのではない。
    授業評価をことばにしていくことが肝心である。

    ひとの「考えている・わかっている」は,たいてい「考えているつもり・わかっているつもり」に過ぎない。
    文章にすることが,「考える」ということである。
    しっかりした文章が出来上がるということが,「わかる」ということである。