Up できない・わからない」では済まない 作成: 2007-06-10
更新: 2007-06-10


    いまの大学生は,自学習しない。
    教員になろうとする教員養成課程の学生も同様で,まったく自学習しないというのは,ざらである。 だいたいが,1週間 (1日ではない!) で2時間を下回るくらい。

    「自学習しない」の意味には「自学習の気持をもてない」と「自学習の能力がない」の2つがあるが,教員養成課程の学生の「自学習しない」はこの両方である。


    学生は,教員養成課程の学生でいることを,資格獲得と卒業に向かうエスカレータに乗っているような感覚でいる。 エスカレータだったら,なにもしなくていいわけだ。

    教員養成課程は,もちろん,エスカレータではない。
    大学の授業が行うことは,学生に対し彼らが自分の脚で上(のぼ)るべき階段を示すこと。
    学生はこの階段を上り,足腰を鍛える。 自分の足腰を鍛えるのは,自分自身である。

    しかし学生には,「自分を鍛えられるのは自分でしかない」ということがわからない。


    大学は,本来,学生が急速に成長するところである。
    大学では,これまでの「人から与えられる」が「自分が自分に課す」に変わる。 学生は,「自分が自分に課す」を行うことで,これまでとは質的に異なる成長を果たす。

    しかし現実の学生は,大学に入ってから卒業するまで,自分で歩くことをしない。
    よって,大学に入ってきたときの幼稚な貌のまま,大学を卒業する。

    「人から与えられる」でしかやれない学生を見て,大学は (「しようがない」というわけで) 彼らを授業と宿題で縛るやり方をとるようになる。 そしてこれがまた,「自分で歩くことをしない学生」の悪循環をつくる。


    教員養成課程では,「自分を鍛える・鍛えないは個人の勝手」とは言えない。 なにせ,学生は教員の資格をとろうという者たちなのだ。
    これは,医者の養成課程で「自分を鍛える・鍛えないは個人の勝手」とは言えないのと同じ。できの悪いのが医者になったら,殺される者が出てくる。

    教員養成課程の学生には,人の命をあずかる医者と教員が同じだという感覚がない。 「下手はできない」「下手をしないためには,しっかり修行しなければならない」「自分を鍛えられるのは自分でしかない」という感覚がない。

    要するに,できない・わからない」では済まない (周りが困る) ということが,わからないのだ。
    できない・わからない」は自分で何とか「できる・わかる」にもっていかねばならないのだが,そのような感覚が学生にはない。
    できない・わからない」を最初の出会いで決めてしまい,そしてそれをそのままにする。
    そもそも,自分の「できない・わからない」を意に介さない。
    自分の「できない・わからない」は誰かが世話してくれるもの,というわけだ。


    こういうわけなので,学生につぎを理解させることが,教員養成課程のいちばんの課題ということになる:

      できない・わからない」では,済まない。 自分の「できない・わからない」は,自分ができる・わかる」へと変えていかねばならない。 そしてこれを行うには,根気と時間を要する。

      できない・わからない」とは,
        根気よくそして時間をかけて「できる・わかる」へと自分を変えていく作業を怠っている
      ということに他ならない。