Up | 「復興」キャンペーン : 要旨 | 作成: 2016-03-24 更新: 2016-03-24 |
原発事故災害からの「復興」は,自然災害からの復興とはわけが違う。 しかし,「福島第一原発事故災害」は,東北の大津波災害と重なったため,「自然災害からの復興」と同じ「復興」のことばが使われてしまうこととなった。 原発事故被災地の「復興」は,放射線量次第である。 線量減少のメカニズムは,「希釈」と「半減期」である。 線量の減少は,2段階になる。 先ず,はじめの大きな値から比較的短期間で一挙に下がる。 これは,「流れるものは流れる」「半減期の短い放射性元素は線量が急激に減る」の現象である。 この期間を過ぎると,後は一定値で安定するふうになる。 「流れないものは容易に流れない」「半減期の長い放射性元素は,その分,線量の減衰に時間がかかる」の現象である。 そこで,事故から5年経ったいまの段階で線量が比較的高い数値の地域は,この後も線量が高止まりしたままになる。 「nマイクロシーベルト(/時)」は,計算
「1マイクロシーベルト(/時)」だと,年間 8.76 ミリシーベルトとなる。 年間 1ミリシーベルトを下回るためには,0.11マイクロシーベルト(/時) でなければならない。 この計算は,いくら「復興」を声高に唱えても,どうにもなるものではない。
「除染」などは,効果において,自然による希釈作用とどれほどの違いがあるのか,実際のところはわからない。 そしてこの作業は,線量の目立つ場所の表層を削り,削ったものを袋に詰め,別の場所に移動し,まとめて積み上げるというものである。 この山は,今後増えることはあっても減ることはない。 実際,原発事故処理現場から出てくる低線量がれきは,行き場がないわけであるから,周辺地域で集積するしかない。 汚染水処理タンクも,じわじわと周辺地域に拡げていく他ない。 どんなつもりで「復興」を言っているのか? つもりもなにもない。 思考停止で言っているわけである 他にしようがなくて言っている。 引っ込みが付かなくて言っている。 原発事故で,田畑や畜産がだめになった。 原発関連の仕事先が無くなった。 これらで生業っていた人を相手にしていた商売がだめになった。 いま商売として成り立つのは,原発廃棄作業に従事する作業員を相手にする商売だけである。 「ひとが戻る」とはどういうことか? どんな者が戻るのか。 つぎのいずれかである: 生業が立たなくなった者,自分の子どもの生い先を心配する者は,戻らない。 これは,《「復興」などというものは無い》ということである。 原発事故で生業を失わないのは,公務員だけである。 住民のいない自治体の公務員の存在理由は,「復興」を唱えることだけである。 よって,公務員は「復興」を唱える者になる。 実際,原発事故が起こって間もないうちに,「復興」は唱えられたのである。 彼らの「復興」の声は,地元の声ということになる。 そして,地元の「復興」の声に対しては,だれも異論を唱えられない。 言っていることの無茶に対し,その無茶を指摘することは,だれにおいても憚られる。 こうして,割の合わない事業が,独り歩きする。 「除染」もこの類である。──《「除染」はしたが,人は戻らない》 ひとは,だれも引導を渡す役にはなりたくない。 この結果は,「蛇の生殺し」である。 原発事故は,「原発事故に負けてなるものか!」となるものではない。 原発事故は,勝負する相手ではない。 起こってしまったら,お終いである。 原発事故は,取り返しがつかない。 もともと取り返しがつかないものに,「取り返す」を唱えるのは,わからないでやっているか,わかってやっているかである。 わからないでやっているのは,<愚>である。 わかってやっているのは,<欺瞞>である。 一方,人とは,この<愚><欺瞞>を含めて人である。 人は,この他ではない。 現前は,現成であり,理の実現である。 これが,生態学のスタンスである。 |