Up 閉山 作成: 2023-12-19
更新: 2024-02-18


      大森 (1968), p.27
      良質炭層を殆んど採掘し尽した美唄炭鉱は,薄層立つ低品位炭採掘の採算性を各面の合理化並に新技術,新機械の導入による高能率によってカバーせんとし,昭和34年度,35年度の2回に亘る再建合理化を行ったが,自然条件の悪化と石炭市場の低落,物価の騰貴,賃金の上昇等より,期待した効果は得られなかった。
      更に昭和36年10月に三度美唄の合理化を図り全山を挙げて経営危機の改善に努めたが,名種の条件は益々悪化してゆき,遂いには37年度の計画出炭も確保出来ず,約7億円の赤字が予想されるに至った。
      而も今後も自然条件は好転せず一層悪化を辿る事が予想せられて,能率の飛躍的な向上は期待出来ず,更に炭量も少く鉱命も短くなっていたので経営を続行しでも将来性がなく,安定した操業を継続する事は不可能と考へられるに至り,遂いに閉山を決意するに至ったのである。
      又昭和38年度の合理化計画を審議していた石炭鉱業審議委員会も同年4月24日美唄を閉山する事の結論に達し,其の旨政府に答申して此処に三井美唄炭鉱の完全閉山の運命が決ったのである。


        『美唄市史』,1970. pp.467-469
       三井美唄炭鉱は,主力炭層の採掘をほとんど終了し,竪坑による登川層深部の開発計画も,調査の結果,埋蔵炭量の不足により断念せざるをえなくなった。
      さらに代替として考えられた奈井江区域の開発計画は,本社からの時期尚早という指令のため,美唄からの計画は放棄され,ここに終掘を前提とした経営合理化への道をたどることになった。
       36 (1961) 年10月12日,組合との間に「美唄合理化協定」が成立,生産規模を縮小するため,希望退職者を募集したが,応募者は530 名にのぼり,本州へ集団就職していった。
      さらに同年11月には,第2会社,三美鉱業を発足させ,翌37年4月には,坑外職場を分離して,三美製作・三美運輸・三美建設の3社を創業することになった。
       前述のように,政府は将来の石炭対策について基本的な態度を決定するため,5月11日,石炭鉱業調査団を編成,全国合理化対策炭鉱の実態調査に乗り出し,有沢団長ほか団員および専門委員,随員一行は,7月15日,三井美唄鉱に来山,三井美唄図書館において,会社側,労働者に分かれて,事情聴取を行なった。
      その後,石炭調査団の報告待ちの形となったが,9月29日付けの朝日,その他の新聞報道により,調査団は三井美唄鉱を閉山グループに加えていることが判明した。
      そのショックはヤマ元の三井美唄だけでなく,美唄市全体を包み,第3回美唄市議会定例会 (10月9日) において,議員提案による石炭産業危機打開に関する決議案が満場一致で可決され,さらに市役所前広場において,市民約700名が参集した石炭産業危機打開市民大会が行なわれ (11月25日),代表委員が国会,政府関係各省に陳情のため上京した。
      しかし,11月28日,政府は「スクラップ・アンド・ピルド」方針を閣議決定し,さらに翌38 (1963) 年1月17日付け朝刊各紙は,三井鉱山社長談として「美唄を3月末までに閉山したい」と報ぜられるに及び,菅市長は第1 回市議会臨時会 (I月23日) において非常事態の所信表明を行ない,市長,市議会議長,地区労炭婦協および上京中のヤマ元代表等は「三井美唄鉱存続に関する要望決議書」と 5万4,000人分の署名を携え,政府関係各省、および三井鉱山本社に陳情した。
      しかし,2月16日,三井鉱山本社における生産計画説明会において美唄閉山の方針が打ち出され,相前後して政府関係からの視察および美唄市に対する事情聴取が活発になり,さらに労働組合においてもこの生産計画に対して,閉山絶対反対の意志の下に,総評,炭労の支援を得て,三鉱連を主軸としてヤマぐるみの活発な闘争を展開した。
       それにもかかわらず5月にはいり,三井美唄鉱の合理化は,決定的となり,閉山時期も差し迫った観が強くなった。
       労働組合側も,従来の閉山阻止の態度を一歩進め,完全雇用と生活の安定を中心とした条件闘争に切り替え,また4月以降の就職あっ旋希望者は,370 名に達した。
      組合の団体交渉はヤマ元から中央に移り,交渉は難航したが,6月27日,トップ交渉によって会社の最終的な考え方を提示させ,28日,この結論を第3回闘争委員会が了解し,妥結することを確認し,昭和38 (1963) 年7月27日付けをもって三井美唄鉱業所は閉山することに決定,7月15日から操業中止,26日殉職者合同慰霊祭,27日閉山式を行ない,12月,長年親しまれてきた通洞坑口を密閉し,ここに三井美唄鉱35年の 歴史が閉じられたのである。

    大森五郎 (1968), p.19 から引用:
    開坑以来閉山前年度迄の出炭並に在籍労務者数の推移


    『足跡』から引用:



    美唄市『写真で見る美唄の20世紀』, 2001 から引用:
    企業整備反対集会 (1959年)


    閉山式 (1963年)



    三井美唄臨時事務所 (閉山処理)



    『足跡』から引用: