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川島 (1933), pp.890,891
空知炭田に於ける三井鑛山會杜所有の鑛區は,北は歌志内村より南は三笠山村に跨り,南北30粁東西
9粁の廣大なる面積を有し、而して其北部即ち砂川炭田は既に砂川炭礦によりて、之れが開發中なれ共,南部即ち美唄炭田は既に其炭層状態は調査濟なりしに拘はらす,未だ開發の運びに至らざりき。
三井美唄鑛區中本計書により直ちに探掘し得べきものは,中暦群にして其主なるものは一番暦(1.1米) 二番暦(2.0米) 三番暦(1.5米) 及四番層 (2.0米) の4暦にして,何れも不粘結性の良質炭なり。
是等諸炭暦は何れも峯延山脈の北側の中腹に於て東西に亘りて露頭し、其向斜軸附近に於ける標高は調査の結果海抜120米 (鐵道省線準以上94.3米) 乃至140米 (鐵道省線準以h114.3米) なることを知り得たり。(第3圖参照)
今是等炭層を探掘するには,海抜140米 (鐵道省線準以上1143米) 程度の個所を水準抗道として開抗するを最も有利なること明かなり。
而して其坑口の開坑に適する位置を求むるに、三井鑛區内としては,落合澤左股、我路附近、又は幾春別川支流盤の澤上流區域かの何れかに選定せざるべからず。
實地調査の結果は次の3案に歸着せり。(第2圖参照)
(1) 我路市街地の南方A點に竪入坑口を設くるか。
(2) 落合澤左股中流B點に竪入坑口を設くるか。
(3) 幾春別川支流盤の澤C點に竪入抗口を設くるか。
第1案 我路市街A點に開坑すれば約1,800米にして向斜軸附近に着炭するを得て水準以上の炭量豊富となり利釜あるも、A點附近は事業用地狭隆なることゝ,石炭の輸送は美唄鐵道によるか、又は之れに平行線を敷設するを要す、
然るに雫行線は,沿線断崖頗る多くして工事困難なる不利あり。
第2案 落合澤左股中流B點(海抜140米鐵道省線準以上114.3米) に開坑すれば,坑道約2,100米にして着炭する事を得、且其附近は地勢緩にして廣く事業所の設置には適すれども,第一案同様石炭輸送は美唄鐵道によるか、又は平行線敷設の必要あり、
此平行線は,延長比較的短距離なるも美唄驛に於て省線との連絡困難なる缼點あれ共,實行可能案なり。
第3案 幾春別川支流盤の澤上流C點(海抜120米、省線準以上943米)に開坑し、向斜軸北翼部に着炭せしむれば,水準最も低下する利釜あるも,竪入の延長3,000米に及び甚だ長iきに過ぐる不利あり。
如斯坑口の位置選定は甚だ困難にして容易に決定を見るに至らざりしも,大體に於て第2案にょり事粟計書の歩を進めつゝありたり。
兩杜鑛區の合併
上述せるが如く三井は美唄鑛區開發の意圖を有し開坑位置に付研究中なりしが、偶々日石鑛區と合併し共同経營とすることを得ぱ,竪入坑口として最も適當せる一の澤に開坑し,2,300米内外にして三番暦に達せしめ得べく、然る時は両社鑛區共其
埋藏炭量の大半は水準以上となり、両社鑛區は之によりて頗る有利に稼行し得て,兩肚は其投資を最も有効に活用し得べしとの議起り,協議の結果、兩社の意見之れに一致し,鑛區を合併し匿名組合を組織して共同経營をなすに至れり。
両杜の鑛區を合併し共同出資によれることは,各社の立場より之れを見る時は,各々比較的小額の投資によりて日石は光珠礦の一大革新更生を實現し、一方三井は比較的容易且つ迅速に鑛區の開發を遂げ得たる所以にして,又其経營形式に付ても新會社設立等の複雑なる關係を排し、兩社相互の深き信頼の下に簡易なる匿名組合の組織を選び,炭礦経營に付,経験深き三井鑛山を營業者たらしめ経營を全く之れに委ねたるが如き、是全く兩社重役の達見英断によるものにして、爲之合同合理化の機能は愈々助長され、其効果を一層大ならしめたるものなり、
之れを各杜単独事業とする場合に比すれば,各杜の投資に対する利潤は蓋し格段の相違を來たすべきは明かなり
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黒田 (1936), pp.521
当鉱区は元村井礦業株式会社所有のものであったが、大正9 (1920) 年寶田石油合祉が之を譲り受けて専ら炭層の調査を行った。
大正10年10月には同社が日本石油会社に合併されると同時に同会社の名義となって、大正11 (1922) 年に三井鉱山株式会社から東部隣接鉱区の一部を譲り受けて光珠炭鉱と名付け、同年7月起業に着手し現在の第1坑、第2坑を開坑し、大正13 (1924) 年3月には田中汽船礦業株式会社の沼貝炭鉱を買収して同年11月から営業を開始した。
然るに昭和3 (1928) 年8月三井鉱山会社所有の隣接鉱区の一部を合併、合計1,000万坪として組合を組織し、経営の一切を三井鉱山会社に引受けて三井美唄炭鉱と改称‥‥‥
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日石より引継ぎ当時の三井美唄鉱業所事務所
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三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5. p.19 から引用:
時代は大正から昭和に移る。
当時の不景気に日石も結局炭鉱経営の自信を失い,三井鉱山に経営の一切を委せようということになり,昭和3年8月1日を期して,看板は「三井鉱山美唄鉱業所」となり,三井美唄の誕生,そして35年の歴史をもったのである。
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三井美唄鉱の発足当時の規模は,職員51名,従業員883名,事務所社宅. 小学校,病院等すべて,落合の沢と社宅の一部が奥の沢の山腹にあった。
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川島 (1933), pp.892,893
當礦當初に於ける事業用地としては落合方面に60餘町歩、市來知方面に約40町歩、合計100餘町歩を所有せしが、市來知方面の分は事業地としては全然隔絶し用をなさす、
又落合坑方面分は新坑口とは山を隔てゝ偏在し、是亦新設備に封しては使用の途なきものなるを以て,新に一
の澤方面に250町歩の比較的平坦なる土地を買収し,坑口、電車線路、鐵道線路、選炭場、工場、事務所、病院、供給所、學校、社宅、材料置場等の引當とし、將來顧慮の要なからしめたり。
此用地は昭和三年末買収に着手し、1ケ年餘を費し漸く全部の買収を終了せり。
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白戸仁康(監修)『目で見る 岩見沢・南空知の100年』, 郷土出版社 , 2004 から引用:
昭和3(1928)年,一ノ沢上流の日石光珠炭鉱や近隣鉱区を三井財閥が買収し,美唄鉱業所を開設。
危険人物を淘汰するなど徹底的な人員削減を行う一方,一ノ沢沿いの山麓一帯に大炭鉱集落を造成し,大規模な施設を整備して足場を固めた。
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1928年,大通洞坑を開削。
1931年には,石炭を坑内から電車で搬出し,美唄駅まで鉄道でつなぐ輸送路を完成。
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『足跡』, pp.111, 112
顧りみれば, 不肖 [川合金治] が三井砂川鉱業所に在勤中の昭和3 年晩夏の或る日の事,川島(三郎)所長が「このたび, 三井鉱山会社で日本石油会社の光珠炭鉱の経営をやる事になり. その責任者に君が任命された通達があったので. その旨を伝達する」と云われ. それから数日後に.東京本店から藤岡取締役が大谷津事務員を伴って来山された。
翌日直ちに藤岡. 大谷津,川島,不肖等数名揃って美唄の山上,落合沢にあった日本石油光珠炭鉱の事務所に, 所長神沢正雄氏を訪れ,来旨を伝えて引継を受け, 日石光珠炭鉱の看板を三井美唄鉱業所に書替えた。
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不肖 [川合金治] つらつら考えるに,此の不成績の炭鉱を経営するには,まず職員. 従業員が一丸となって忠実に事業に努力すること,即ち「三井社風」を習得実行せしめるにあると,そこで,不肖自から毎日作業服,脚胖,草鞋に身を固め,各現場を巡視し指導監督する等,その範を示したので. 全山これを習い事業に努力したので業績は年と共に向上し,赤字は黒字になった。
さて不肖が,昭和11年春迄の8ヶ年間,所長として在勤中に手をかけた主なものは,第一坑 (落合坑),第二坑(奥沢坑) の坑内の整備発展,および坑内外の改善,第三坑の開坑. 通洞の掘さく,畜電l気機関車の採用,選炭設備機の新設,鉄道引込線の敷設,扇風機の据付 (従来は第一坑々口に風塔を建て,これによって全坑内の通風を行っていた),上水道工事,山上にあった事務所,病院,小学校,住宅その他総ての福祉施設を現在の所に移設し,また商店街の移設等まで行ったので,此の間は実に美唄鉱業所の第二の起業時代とも云えるのである。
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