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三井美唄鉱業所臨時事務所『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5., pp.4,5
炭鉱王を夢見た何人かが明治22 (1889) 年頃美唄の山に着目し,背を没する熊笹を踏み分けて調査と踏破を行い,黒ダイヤの開発を企てた。
これの先陣は,徳田与三郎氏である。
徳田氏は元新美唄鉱業所の前身「徳田炭鉱」の創始者であり. ライマン調査隊の一員としてライマン博士の指導をうけた一人であるという。
彼は美唄の山々の地下にある石炭に注目し,落合の沢,盤の沢. 我路の沢上流一帯にわたり踏査,露頭から露頭を求めて調査をした。
明治42 (1909) 年,所有三鉱区のうち盤の沢鉱区29万坪の鉱区の試掘にかかったが一時中絶,大正2 (1913) 年炭況好転に伴い再び事業を開始「徳田炭鉱」の経営に当ったもので,昭和16 (1941) 年三井鉱山に吸牧きれるまで存続した。
徳田氏は "炭都美唄" の名実とも草分けの功労者というべきである。
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白戸仁康(監修)『目で見る 岩見沢・南空知の100年』, 郷土出版社 , 2004
新美唄炭鉱の前身は,明治44(1911)年に盤の沢に開鉱した徳田炭鉱で,美唄鉄道の開通により大正4(1915)年に新美唄炭鉱と改称された。
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『美唄市史』,1970. pp.478 ,479
位置 |
盤の沢町
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鉱区 |
採掘登録 第169号
面積 270,855坪 (約90.3ha)
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鉱長 |
徳田與三郎 徳田康作
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沿革 |
明治44 (1911) 年4 月,徳田與三郎は鉱区の試掘権を得,大正2 (1913) 年4月,採掘に転願した。
その後,事業拡張に伴い大正4年,鉱名を新美唄炭鉱とした。(従来は徳田炭鉱)
昭和12 (1937) 年6月,組織を変更して新美唄炭鉱株式会社と改称した。
その後生産,販売ともに好調で、道内中小炭鉱のなかでも屈指の最良炭鉱であったが,昭和15年,自鉱区の大半を終掘し,昭和16 (1941) 年1月31日,鉱区および鉱山施設設備のいっさいを三井鉱山株式会社に売却した。
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出炭量 |
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大正2年 |
522 t |
3年 |
2,537 |
4年 |
7,586 |
6年 |
4,409 |
7年 |
5,553 |
8年 |
6,423 |
9年 |
6,062 |
10年 |
6,222 |
11年 |
6,362 |
12年 |
9,546 |
13年 |
10,146 |
14年 |
9,664 |
15年 |
9,915 |
昭和2年 |
13,777 |
3年 |
14.711 |
4年 |
19,929 |
5年 |
18,424 |
6年 |
19,302 |
7年 |
27,229 |
8年 |
29,420 |
不詳 |
11年 |
44,100 |
不詳 |
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地質 |
石狩炭田中層群に属し,炭層は計6層ある。
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炭質 |
不粘結性または微粘結性にて発熱力強く (7,755 cal),灰分少なく,一般家庭暖房に適している。
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採炭法 |
当初残柱式採炭法であったが,後に前進長壁法に変更した。
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送炭先 |
国鉄,江別富士製紙,その他
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従業員 |
坑内夫 男132名
坑外夫 男30名 女14 名
計 176名 (昭和8年現在)
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その他 |
住宅,寄宿舎,配給所,鉱夫クラブなどがあった。
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