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『足跡 : 三井美唄35年史』,1964.5, pp.12-14
大正9年5月から "落合の沢" 上流から7号の沢,4号の沢 (川内) にかけての村井鉱区を引ついだ「宝田石油株式会社」は,新潟麻長岡市に本社を持つ当時の「石油大手会社」の一つで,社長は橋本圭三郎氏であった。
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さて,宝田が実際に主人公,経営者であった時代は.結局調査.試掘の一年程で,三番層(落合) 五番層(奥の沢) から川内に亘る一帯を,当時の調査隊が熊笹を分け谷川を渡って調べたらしい。
現在でも七号の沢の上流深くには,その時代の試掘の坑口が残っている。
もちろん当時のこの辺の山は,"オヤグの巣" というほどの未開地で,色々とこれに関する話があったようである。
大正10年になって,宝田石油と日本石油の二大油ヤが仲よく手を握り,合併の上,日石一本になった。‥‥‥
日石では. 美唄の炭鉱開発方針ーをそのまま宝田より引つぎ,愈々起業に着手することになった。
然しこの仕事は,やはり手慣れた炭鉱ヤに頼むに限ると,橋本副社長から大倉組の重役細井岩弥氏にワタリがつけられ,本格的開発工事の実施担当の大命が,大倉茂尻炭鉱にいた菅六郎氏に降下したのである。
炭鉱鉄道時代の夕張をふり出しに,道内の炭鉱開発のベテラン菅六郎氏が早速日石美唄の開発のための要員を茂尻坑から選抜し. 美唄に乗り込んだのが大正11年の春である。
その時のメシパーは浅沼英次郎氏,三浦金助氏などのよりすぐりの先山連10名であった。
この中には現在南美唄の商店で名じみの大川重道,福光常太郎,吉岡伝太郎,進藤熊作,柳市五郎氏などがいた。
一行はそれぞれ美唄市街地に居を構え,三交替で落合の沢右股の谷を上り,落合斜坑開さくの準備に通った。
当時出勤者は時間をきめて東明の入梁橋のたもとに集合,かたまって沢道を辿った。
少人数では途中熊に合う危険があったわけで. この橋が事実上の繰込場であったと当時の人々は語っている。
そしてこの落合右股の沢沿いの道が,13年落合社宅ができーの沢からのルートがつくまでの米,みそなどの運搬路となったのである。,
12年8月. 待望の落合坑 (旧ー坑三番層斜坑) の坑口の起工式が行われた。
そしてここで始めて「光珠炭鉱」の名乗りを上げた。
奥にあった商店を一斉に移したものである。
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