Up 美唄鉄道 作成: 2014-01-17
更新: 2024-01-23


飯田炭鉱
「沼貝村全圖」(1915)

1916年の地図 (参謀本部,1916)
(画像クリックで,拡大)


美唄市『写真で見る美唄の20世紀』,2001 から引用
三角山下付近 (1918)



『美唄市史』,1970, p.562 から引用:
美唄鉄道株式会社事務所 (大正時代)


美唄市「行政資料室のページ」から引用:
昭和40年代



      『美唄市史』,1970. p.444-
     美唄の炭鉱開発をいっそう刺激したのは,大正3 (1914) 年の美唄軽便鉄道の開通であった。
     飯田からヤマを買収した三菱合資会社は,さらに美唄軽便鉄道の買収に成功し,名実ともに独占的な基盤を固め,本格的採炭を開始した。
    大正3年7月29日にぼっ発した第一次世界大戦は,わが国の経済に空前の好影響を与え,石炭の需要も増大し,炭価は上がり,文字どおりの黄金時代が出現した。
    この好況を反映して,多くの炭鉱開発が計画された。
     美唄炭山の開発に多年の辛苦をなめた徳田與三郎は,明治43 (1910) 年,自己の鉱区付近に美唄軽便鉄道の敷設工事が開始された機会に,盤の沢鉱区の試掘を開始して,大正4年の春,新美唄炭鉱と命名,陣容を新たに本格的採炭を行なったため,経営はようやく軌道に乗り,連年の不況時の赤字累積を克服するにいたった。
     また,黒柳金二郎との係争で一敗地にまみれた石狩石炭株式会社は,依然として大鉱区を有していたので,大戦の好況に刺激され,滝の沢方面の開発準備をしていた。
    そのほか,大手の三井鉱山も美唄の山を全面的に三菱の手にゆだねることはしなかった。
    当時,上砂川方面の炭鉱開発に主力を注いでいたが,大正3年,函館の園田実徳の所有していた鉱区を買収,我路の沢から滝の沢にいたる総数14鉱区の採掘準備を行なっていた。

      同上. pp.560-563
    美唄鉄道の計画
     鉄道の固有化以前の鉄道輸送は,北海道炭砿鉄道会社の独占下にあり,他の沿線石炭業者の石炭輸送については,まったく顧みられなかった。
     このような状態に対処して,明治38 年,石狩炭田地帯の石炭業者が会合し,大規模な運炭鉄道を計画した。
    その経路はおよそ次のようであった。
      石狩河港 一 (石狩川右岸) 一 浦臼村 一 (石狩川横断)
       一 中村農場 一 美唄 ┬ 美唄炭山
                   └ 奈井江 ┬ 奈井江炭山
                         └ 空知川沿岸炭鉱
     美唄炭山を大規模に開発しようと計画していた石狩石炭株式会社は,この計画を継承し,沼貝駅 (現在の美唄炭山駅) から美唄駅を経由し,月形から石狩港を結ぶ全長198 kmに及ぶ路線の申請のかたわら,アメリカに蒸気機関車を発注した。
     この計画は,その後の調査の結果,石狩河港の修港が不可能という結論と明治39年10月の鉄道固有化により石炭運送の懸念もなくなったため変更され,路線を美唄一沼貝駅間とし,明治39年10月から美唄駅構外で専用鉄道敷設工事を開始した。
    明治42年,石狩石炭株式会社と黒柳金二郎との間に鉱区に関する係争問題が起こり,企業および敷設工事は途中で中止された。
    この事件は石狩石炭の敗訴となったが,明治45年4月,石狩石炭は敷設工事の再出願を行なった。
     石狩石炭の再出願を知った飯田延太郎は鉄道を石狩石炭に制せられるのをきらい,自ら敷設願を提出した。
    また,鉱区の所在地に農場を有する桜井良三は,自己の土地の発展と飯田の援護の意味もあって,大正元年12月,地元有志の賛同を得て同様の敷設願を提出したため,三者競願の形となった。
     鉄道院としては一般公共の貨物輸送を目的とした,桜井ほか8 名の請願を最有力としていたが,石狩石炭がすでに40余万円の巨費を投入している点とにわかに軽便鉄道として敷設することに変更したため,飯田,桜井両者も撤回し,ここに石狩石炭は敷設権を獲得し,大正3年3月,工事を再開した。
    美唄鉄道の開通
     大正3年11月5日,美唄軽便鉄道は美唄一沼貝駅間 8,250 m の運輸営業を始め,同時に沼貝駅,我路駅の営業を開始した。
     大正3年11月3日,営業開始に先だち美唄で盛大な開通式を行なった。
    当日はひどい雨降りであったが,浅野総一郎夫妻をはじめ村の有志が列席した。
    炭山の各駅前には4斗だるの鏡を抜いて,通行人にいくらでも酒を飲ませるほどのにぎわいであった。
     また,開通式の行なわれたところの我路市街は,急造バラックの小さな家がぎっしり軒を並べ,その発展ぶりは驚くほどであったといわれる。
    美唄鉄道株式会社の設立
     大正4年8月,三菱合資会社は,飯田美唄炭鉱の鉱区および設備のいっさいと鉄道を買収した。
    美唄軽便鉄道は,5月,三菱の買収に先だち飯田延太郎の名義によって譲渡され,それを三菱に引き継いだものであった。
    三菱合資会社は,同年8月,美唄鉄道株式会社 (資本金50万円) を設立し,大正4年10月11日から自主運営を開始した。
    ○ 美l貝鉄道主要沿革
    大正7年 9. 1 沼貝駅を美唄炭山駅と改称
      9年 9. 9 資本金を120万円とする。
      11年 11. 7 国鉄美唄駅と共同使用。
      13年 3. 31 資本金を180万円とする。
        11. 11 三菱美唄砿業所の専用鉄道 3.660 m (美唄炭山〜北二の沢) を買収。
        12. 15 美唄炭山一常盤台間 2,310 m 営業開始  
    全長 1万560m の地方鉄道となる。
      14年 12. 15 盤の沢駅設置
    昭和17年 6 戦時非常貯炭線として東美唄構外側線敷設される。
    起点2,787 m
      23年 1. 10 東明駅設置
       11. 25 一般乗合自動車営業開始 美唄一東明間 4.8km
      25年 4. 1 三菱鉱業株式会社へ吸収合併
      37年 11. 1 石炭運賃通算制実施


      『美唄百年史』.pp.473-.478
    石狩石炭株式会社による鉄道建設
     鉄道固有法が公布された明治39 (1906) 年に設立された石狩石炭株式会社 (社長浅野総一郎) が、美唄炭田の本格的開発をめざし、最初に専用鉄道の建設工事に着手したのは翌 40 (1907) 年6月のことであった。
    美唄川上流域一帯の地主桜井良三から美唄川ぞいの土地70町歩の譲渡を受け、土工事も順調に進んで翌41(1908)年9月には四カ所の橋梁工事に入り、軌道敷設用資材も続々入荷していた。
    ところが肝心の鉱区権問題で前の権利所有者である黒柳金二郎との間に係争が起こり、およそ40万円を投入した鉄道工事も同年11月をもって中断されたのであった。
    すでにレールを敷くばかりになっていたのである (第二章第四節参照)。
     明治44 (1911) 年2月、浅野はけつきょく行政裁判で黒柳に敗れて主力鉱区を失ったが、それでもまだ周辺に11鉱区をもっていたこともあり、翌45 (1912) 年4月、再度の専用鉄道敷設願を提出した。
    これに対して、黒柳の鉱区を継承した飯田延太郎もまた飯田美唄炭鉱開鉱のために同年専用鉄道敷設願を提出して、両者の競願となった。
     一方鉄道用地を浅野に譲渡していた桜井は、45 (1912) 年5月8日、弁護士を通じ浅野に対して70町歩の土地返還交渉を開始する一方、3カ月後の大正元 (1912) 年8月1日には飯田延太郎との間に、もし返還されたときは飯田に対して無償譲渡する趣旨の覚書を取りかわす。
    もちろん請負契約その他の条件つきである。
    そのうえで同年12月22日、桜井は政財界および地元関係者9人連名による「美唄軽便鉄道敷設認可願」を総理大臣桂太郎に提出した。
    軽便鉄道とは、明治43 (1910) 年に施行された「軽便鉄道法」にもとづく私設の旅客貨物鉄道のことで、軌道幅や施設は国鉄と何ら変わらない。
     桜井らの認可願書等によれば、会社の資本金は30万円、鉄道建設費用もまた30万円であったが、願人のなかには飯田延太郎配下の者 (工藤自助) まで混じるといったものであった。
    桜井にしてみれば、軽便鉄道法ができたいま、浅野・飯田のどちらに認可されても、他からの介入の余地がない専用鉄道であっては困るというのが恐らく本音であったと思われる。
     大正2 (1913) 年9月17日になって浅野は、けつきょく専用鉄道にかえて「美唄軽便鉄道敷設免許御願」を改めて提出し、1カ月後の10月14日、総理大臣山本権兵衛名による免許状が石狩石炭株式会社に下付された。
    続いて「本鉄道ハ大正三年三月三十一日迄ニ工事ニ着手シ大正三年八月三十一日迄ニ竣工スへシ」との許可がおりたのは、大正3年2月20日のことであった (のち竣工期限は同年10月31日までに延長された)。
    工事と開通
     さて工事は、大正3 (1914) 年3月19日、5年間以上放置されていた路線のいわば復旧工事から始まった。
     当時の『北海タイムス』によれば、美唄川ぞいの曲線部や斜面の石垣などがすでに各所で決壊していたという。
    それでも天候にも恵まれて工事は順調に進み、7月半ばには盤ノ沢近くまで軌道が伸びて資材運搬用の列車が入るようになった。
    国鉄美唄停車場にはアメリカ製の7010型機関車がすでに入っていた。
     8月下旬になると鉄道のほぽ最終地点まで資材用列車が入り、停車場予定地の一つである桜井農場の一部 (我路停車場付近) には70余戸の市街地が形成され、最終駅 (沼貝駅) に近い飯田美唄炭鉱坑口近くには、すでに積み出しを持つ3万トンの石炭が堆積していた。
    『北海タイムス』によれば、桜井商会では600人の土工夫・雑夫・杣夫を使い、飯田炭鉱の800間の輪車路開削と坑木・建築用材供給作業のさなかで、岡田春夫 (先代) がわらじばきで陣頭指揮をとっていたという。
     鉄道工事を一手に請負ったのは札幌の堀内組 (堀内廉一) であった。
    最初の工事からの引き続きであったかどうかは不明だが、土工事を実際にやったのはその配下や下請けのタコ部屋である (桜井商会は鉄道建設では木材供給が中心であったらしい)。 ‥‥‥
     鉄道建設の総工費は、明治41年から通算して50万円、あるいは60万円とも報じられたが、10月25日すべての工事が完了して国鉄美唄駅との連帯運輸契約もとりつけ、美唄駅から我路駅を経て沼貝駅に至る 8.25キロメートルの美唄鉄道は11月5日の開業を待つばかりとなった。 ‥‥‥
    7010型38トン テンダーエンジン10輪 (6輪連結) 機関車2両、定員38人乗り三等客車2両を使用し、当面一日に定期混合列車4往復、不定期混合2往復など計7往復の運行を行い、全便に24トン積み無蓋車など6両の貨車を連結して、一日1000トンの石炭を搬出する体制であった。
    そして開業時の従業員は、事務長以下、駅長・助役・運転手・車掌・線路工夫、その他小使まで入れて総勢46人であった。
     11月5日、美唄・沼貝両駅でそれぞれ50発の花火が打ち上げられ、美唄軽便鉄道は、あいにくの雨天ではあったがはなやかな開通式を迎えた。 ‥‥‥
    三菱による美唄鉄道の買収
     積み荷はまだ飯田美唄炭鉱の石炭が主体であったが、前途洋洋たる出発であった。
    ところが美唄鉄道の開通から23日後の11月28日、石狩石炭株式会社の経営する夕張炭田の若鍋炭鉱で大ガス震発が起こり、死者423人を出すという大惨事が発生した。
    沼貝村でも被災者の遺族に対する義援金募集が行われたが、美唄での鉱区開発を目前にしていた浅野惣一郎の計画は大きな変更を余儀なくされたばかりか、たちまち苦衷に追い込まれることになった。
     半年後、美唄鉄道はついに競争相手でもあった飯田延太郎に売却されることになり、大正4 (1915) 年7月19日、浅野と飯田との間で売買契約が結ぼれた。
    価格は80万円であったが、その代金は三菱合資会社 (以下、三菱と略す) が負担していたのである。
    そして石狩石炭として開発を予定していた鉱区もすべて飯田に売却された。
    ついで8月2日、美唄鉄道は飯田延太郎への名義変更が許可され、9月1日から飯田の経営による鉄道として営業が継続されることになった (「鉄道省提出文書」)。
     だが実際は、飯田は三菱のかくれみのであった。
    すなわち飯田は、その年の4月29日にはすでに三菱に対して飯田美唄炭鉱をすべて売却していたからである。
    鉄道買収を直接交渉しては価格をつり上げるとみた三菱は、この炭鉱買収を極秘にさせたまま飯田を使って浅野と交渉させ、鉄道名義が完全に石狩石炭株式会社から離れたあと、9月15日になって初めて「三菱美唄炭坑」の看板を表に出したのであった (第二章第四節参照)。
     続いて三菱では、9月29日、資本金50万円の美唄鉄道株式会社を設立し、10月2日付げで飯田から美唄鉄道株式会社への名義変更手続きを完了、同日から名実ともに三菱系列の鉄道としての営業を開始した。
    ちなみに巨大鉱区と採掘・運搬機能のすべてを手中にした三菱に対し、鉄道建設までさまざまな曲折を体験した石狩石炭株式会社は、その後、6 (1917) 年9月には夕張の鉱区も三井鉱山株式会社との共同名義になり、9 (1920) 年1月には完全に北炭に吸収された。
     美唄鉄道の大正4年ころの駅員数は、沼貝駅が駅長以下5人、我路駅が助役以下3人で、国鉄美唄駅の16人、峰延駅の7人に比べると少ないものであったが、膨大な出荷貨物量の90パーセント以上が炭鉱の選炭場に接続する積込場から直接積込まれる石炭だったからであろう。
    停車場のうち沼員駅は、大正7 (1918) 年9月1日から美唄炭山駅と改称した。
    改称届けによれば、「弊社沼貝駅ハ美唄炭坑所在地ニ候処,別ニ沼貝炭坑ナルモノ院線峰延美唄駅ノ中間ヨリ東方山地ニ有之候関係上,沼貝炭坑行キ貨客往々ニシテ沼貝駅ニ誤着スル向アリ」不便少なからぬためであった。
     三菱の企業拡大にともなって、大正七年の貨物取扱量はおよそ47万トンにのぼり、うち三菱美唄鉱積出し石炭が43万トンと92パーセントを占めた。
    そこで8年から9年にかけて、施設の充実に合わせて機関車4両のほか貨物・旅客車両をさらに増強していった。
    現在美唄市の文化財に指定されている4110型10輪連結タンク機関車2号は、大正8年11月三菱神戸造船所で発注製造されたもので、価格は22万1609円であった。
    『三菱鉱業社史』によれば、大正7年の美唄鉄道営業純利益は4万352円で、年7円の株主配当がなされたという。
    翌8年ころの旅客列車時刻表と運賃は別掲のようであった。
     その後さらに三菱の奥地開発にともない、13年12月5日には、炭鉱の専用鉄道として敷設されていた線路の一部を使って常盤台駅を開業し、14年12月15日には滝ノ沢発電所の開設に合わせて盤ノ沢駅を開業した。
    現在駅舎が保存されている東明駅の開業は、第二次世界大戦後のことである。


『美唄市百年史』, p.363 から引用:
桜井良三と石狩石炭の契約書


同上, p.365 から引用:
桜井良三と飯田延太郎の契約書