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『美唄市百年史』, pp.377,378.
一切羽の人員は炭層などの条件によって異なるが、二人一組・三人一組くらいの単位
が普通であった。
三菱美唄炭鉱では単位が少し大きく、大正8 (1919) 年ころまでの掘進切羽で3人、採炭 (払い) 切羽で6〜10人が普通であった。
この一組を槌組といって先山と後山からなり、熟練した先山が発破の穴をあけている間に、後山はすかしを入れたり石炭を積み込む空車を準備したりする。
そのあと発破係員に発破をかけてもらい、発破が終わると丸太などで天磐などを押さえ、崩した石炭を 0.7トン積みの炭車にスコップで積み込み、運搬夫のいる運搬坑道まで後山が運び出す。
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『美唄市百年史』, pp.378,379.
切羽の槌組の組み合わせは変わらないのが原則で、先山は坑内のさまざまな事情にも詳しくしかも熟練した技術が要求されたから、先山・後山の関係はきわめてきびしく、徒弟的要素が強かった。
さらに賃金は出来高制であったから、一家の収入をあげるべく夫婦や血縁関係で組むこともあった。
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