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『美唄市史』,1970. pp.466,467
「スクラップ・アンド・ビルド」政策
37 (1962) 年度,石炭業界の特質である「スクラップ・アンド・ビルド」政策の直接のきっかけとなったのは,炭労の政策転換闘争であった。
これを受けて立った池田内閣は,37年5月11日,有沢広巳を団長とする石炭調査団を発足させた。
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石炭調査団の報告待ちで成り行きを注目していた石炭各社は,年明けと同時にあいついで大幅な合理化整備案を発表,
三井鉱山の美唄・田川・山野,
三菱鉱業の芦別,
新入明治鉱業の庶路・赤池,
北炭の神威・空知
といったぐあいに閉山,第2会社への移行が具体化していった。
そのため炭鉱のスクラップ化は,38 (1963) 年度に集中的に実施され,閉山規模 555万t (北海道144万6,000 t ) に達し,炭鉱数は,前年の 418 から 335 となり,5年前の784 に比べると半数以下に減少した。
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39 (1964) 年度は「長期合理化計画」の2年めとして,前年に続いて炭鉱のスクラップ・アンド・ピルド化が進められ,能率向上の反面,出炭の不振,労務者の不足,コスト高,保安悪化などが目だち,企業の優劣が,さらにはっきりしてきた。
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40 (1965) 年にはいり,37年から吹き荒れた閉山縮小の嵐が一段落し,出炭は年産5,011万t (目標5,094 万t ) となり,当初計画の98.4%の達成率を示した。
北海道は年間生産量 2,213 万t に達し,九州の 2,188万t を抜いて名実ともに日本ーの石炭生産地の座についた。
しかし,需要の先細りの傾向から貯炭はふえる一方で,各炭鉱は累積赤字に資金繰りが困難となり,経営は極度に悪化していき,大正4 (1915) 年開鉱の歴史をもつ三菱美唄砿が6月,第2会社に移行したほか,中小で10数鉱,閉山規模43万t となった。
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