Up 赤字経営 作成: 2024-01-18
更新: 2024-01-18


      『美唄市史』,1970. pp.464-466
    需要の減退
    ‥‥‥ 朝鮮動乱ブームも,27年春ころから需要が漸次後退を示し,わが国の産業活動は活気を失った。
     同年10月,炭労の長期ストによる影響で590万t の減産を余儀なくされ,スト終結時全国貯炭量は91万t に落ちた。
    スト解決とともに,出炭は急テンポで上昇し,28年1〜3月は,戦後最高の出炭量を示した。
    しかし,国際的な熱エネルギーの拡張と石炭産業の長期ストの影響で重油の輸入が目だつようになってきた。
     28年にはいり,全国の貯炭は200万t に達し,なお貯炭の増加に伴い,石炭置場捜しに奔走しなければならなかった。
     29 (1954) 年には,大不況となり,全国貯炭量400万t ,休廃坑は実に250 に及び,大手筋の炭鉱は比較的平穏でも,中小炭鉱は悲惨であった。
    合理化対策
     朝鮮動乱ブームの終息と世界景気の中だるみを背景として,国内産業の合理化問題が取上げられ,高炭価問題は27年以降政界,財界においてやかましく論議されていた。
     この高炭価問題と28年,29年のこの炭鉱不況救済の問題とからみ合わせ,29年から「石炭鉱業合理化臨時措置法J が検討され,30年7月,国会を通過した。
     その内容は,高能率炭鉱の助成,低能率炭鉱の買い上げ,合理化効果を炭価に反映させるため毎年標準炭価を決定することなどである。
     しかし,この法案が成立したときは,すでに神武景気のきざしが現われ,30 (1955) 年秋から好況へと向し、31年,32年と好況を迎えた。
    そして,32 年夏には,年産7,200 万t の長期増産計画すら検討された。
    しかし,33 年から再び不況となり,しかもそれは根の深い,いわゆるエネルギー革命による不況であった。
     貯炭は空前の量となり,全国で1,000 万t を越えた。
    昭和28年8月7日,三井美唄鉱は会社側から企業合理化案が提示され,12月半ばにいたる113日間の大争議に発展した。
     三井美唄鉱は,三菱美唄砿に比較すると炭質,炭量ともに劣り,主力炭層の採掘がほとんど終わりに近づいていたため,会社側にも組合側にも深刻な打撃を与えた。
     翌29 年にはいると,三井美唄鉱は2坑を閉鎖し(4月),さらに12月には鷹の沢坑の採炭を休止して,鉱区を舟橋要に租鉱稼働させ,ここに三舟炭鉱が美唄に誕生した。
     同年,三菱美唄砿は,戦後最高の122万t の出炭をみた。( 鉱員5,800名)
    これは次のような事柄を操業の方針として,合理化を図ったためである。
      ① 操業の集約合理化
      ② 機械化の促進
      ③ 科学管理およびTWI (企業内訓練) 方式教育の徹底
      ④ 保安の絶対確保
      ⑤ 薄層良炭区域の高能率採炭による鉱利の保護
      ⑥ 出炭の量および質の伸縮性の確保
     合理化は,採炭の機械化とそれに伴う余剰人員の削減という形で行なわれた。
    すなわち,合理化が叫ばれだした28〜29年における三菱美唄砿の出炭量は,120万t台で,鉱員は 5,800〜6,000名であった。
    それ以降も,年間出炭量は 95万t〜100万t 程度を維持したが,鉱員は人員整理や無補充を堅持したため,年を追うごとに減少の一途をたどり,38 年になると出炭量 96万t,人員2,500 名となり鉱員数は実に半数近くになっているのである。
     ‥‥‥
      エネルギー革命
     昭和34 (1959) 年,他産業が岩戸景気に酔っているとき,石炭産業は不況にあえいでいた。
    しかもこの不況は,周知のとおり,エネルギー革命による危機にほかならない。
     すなわち,世界的動向として,経済性・利便性・オートメーションの普及などにより,エネルギーの消費構造が石炭のような固体エネルギーから重油,液体ガス等の液体エネルギーへと変革していき,この結果,昭和35 (1960) 年度には石炭( 国内炭〉より石油の供給量が上回るようになった。
    さらに,昭和36年7月. 貿易自由化の繰上げに伴い,石油の自由化が37 (1962) 年10月に繰り上げられ,石炭業界はさらに一段と深刻な危機に直面した。